読書と競馬

競馬は文学である

2016 今日はダメな日

 今日はダメな日、と昔、女から言われて、私は内心ビビってしまって手を触れることも髪をなぜる事もできなかった覚えがあるが、そういう話ではなくて。

 モノホンの、国家公認のメンヘラさんである私にとって、今日はダメな日、だ。不定期だが、二週間に一日はこんな日がある。頭痛はないし、熱もないし、鼻水出てないし、喉痛くないし、胃も痛くないし、快便続きでお腹痛くないし、でも「今日はダメな日」。

 どうも聴覚が鋭敏を飛び越えて過敏だ。それらに一々心が乱れてざわめく。世界が認知できなくなるというか、そんな壮大な感覚ではないのだが、といって離人症的な症状でもなく、何も出来ない日というのが今来ている。さっぱりだ、何にもできない。寝てしまえと思っても神経が過敏になっているので布団の肌触りさえ嫌だ、みたいな。

 面倒くさいね、自分で自分自身を持て余してしまうのだから、周囲の人間にはもっとやるせないだろう。

 

 進まぬ読書ながら頑張って読んでいる途中、メモ。

 ポストコロニアリズム批評、というものがある。ポスト植民地主義、という邦訳であってるっけ。例えば日本の場合、戦前は朝鮮半島と台湾、それから大陸側で中国の方をちょびちょび支配していたという状況があった。満州も建国してしまった。日本の近代小説は明治期より始まっているので、帝国主義的な植民地拡大という情勢の中、鴎外漱石等々その他文豪達はただニュースとして受け入れて物を書いていたわけだ。

 第二次世界大戦が終わると、帝国主義はさんざんな言われようで死に絶えた。新しい世界的な価値観の中で、かつての帝国主義時代に書かれた小説に、植民地及びそこに住まう人々をどう捉えていたか、そういう事をやるのがポストコロニアリズム批評である。要は後出しジャンケン批評、左向きに寝違えてまっすぐ前を向けなくなってしまった人がよく好むものだ。

 それと似たような事と言えるのかしらんが、淳之介さんのたいていの小説は、フェミニズム批評に晒されるとめった刺しにされるんではないか、と危惧してしまった。もう亡くなっているのだから本人は知らん顔であの世にいるだろうけども。

 「驟雨」の辺り、吉行淳之介さんの小説が新鮮だったのは、ヤリタイなら買えばいいじゃん、というストレートな意見。ああそうかと気付かされる文学だったと言える。北方謙三は淳之介さんより後にこういう事を言い出した、「四の五の言わずにソープ行け」と。

 別に今だって、赤線青線などは廃止されたがいくらでも買える。この頃はデリバリーで向こうからやってきてくれる。

 こういうのって、21世紀を生きている男性陣はどうしたらいいのか、いや買うんだけど、そういう事はもう書き物にしちゃいかんのかな、なんて思う。西村賢太積読の中に入っているんだけど彼風俗好きでしょう、書いているでしょう、いいのかな、私も割りと好きなんだけど。

 ちょっと答えが出ないなあ。なるべく触れないようにすればいいんだが、それは逃げだから何とかしたいが、偉い評論家さん辺り、何か有意義な発言をしてくれんか、と思って二十歳を過ぎたくらいからかれこれ8年も待っている。