読書と競馬

競馬は文学である

2017 「ライ麦畑でつかまえて」(野崎版)の感想とスタイル

(1)感想など 

読書メーターに書いたものだとこう。何というか255文字で感想書けと言われると無理な小説なので、こんな風にしてお茶を濁した。

 

実に11年ぶりの再読である。18歳の私は怒ったのだ。だってホールデン、君は私が言わずにおいた事をのべつ幕なしに喋って聞かせるんだ、腹を立てて当然じゃないか? でも今は違う。相対化と客観視、つまりこれもインチキだな。要するにだ、あの時君は柵の上に座っていたから私は文句を言いに登って君の隣に腰掛けた。いつの間にか私は柵から降りていたってわけだ。見上げると今でも次から次へ君に何か言いたい奴らが押しかけているじゃないか。君は不機嫌そうだが退屈しないだろ、年もとらないしな。寂しくなったのは私の方さ。参ったね、全く。

 

 本題の前に、四方山話でも。

 読書中、脳内のBGMはイーグルスデスペラードだった。以下はlive版ではなく原曲。


The Eagles- DESPERADO-HD

 柵の上がどうこう、なんて本文に無関係な語を持ち出してレビューを書いたのはデスペラードの歌詞があったからだ。

 歌詞の最終連はこうある。

Desperado, why don't you come to your senses?
Come down from your fences; open the gate
It may be rainin', but there's a rainbow above you
You better let somebody love you, before it's too late

 適当に訳すと

デスペラード(ならず者)、何で分からないんだ?

柵(フェンス)の上から降りてこいよ、門(ゲート)を開けるんだ

雨降りの日もあるさ、けれどお前の上に虹がかかるかもしれないじゃないか

誰かに愛してもらわなきゃいけないよ、手遅れになる前にさ

 

 こんな感じで、目の前にたくさん良い物が転がっているのに手を出そうとしないし、柵の上に座り込んでいる。いつまでそうしているつもりだ、もう良い歳だろうに。そろそろ柵から降りて地に足の着いた事をやるべきだ。手遅れになるぞ。

 と、全体を要約するとこうなって、つまり私の解釈だとこうなる。

 あの頃の夢だけでは生きていけないし、それを追い続けて人生がパーになったらまずいじゃないか、そりゃ確かに夢を諦めるのは哀しい事だけど、良い事だってあるんだ、さあ、孤高を気取ってないで俺達の所へ降りてこい、心を開くんだよ。

 夢追い人に現実的な生き方をするよう忠告する、おセンチなスローバラードだと思っている。

 

 この解釈のままずっと過ごしてきたわけだけど、このデスペラードの歌詞、深読みするとベトナム戦争時のアメリカを皮肉ったものだ、とか失恋した男(女)への慰めだとか、なかなか多様な解釈があった。むしろ私の解釈に似たものを見つけるのが苦労したくらいだ。

 同じように多様な解釈ができるものに、イーグルスの恐らく最大のヒット曲であるホテル・カリフォルニアがあるだろう。歌詞にコリタスの匂いがするとか、1969年のワインしか置いていないとか、チェックアウトはいつでもできるけどホテルからは出られんぞ、なんて暗喩的な歌詞が魅力的。ベストアルバムの解説では当時のアメリカロック界の、麻薬等々薬物汚染を指摘している、みたいにやっつけてあったが、別の解釈も可能だろう。

 

 脱線しすぎて横転しそうなのでライ麦に話を戻すと、ホールデンは柵の上にいて(いつまでも半分子供半分大人の鋭敏で感傷的な、純粋な存在でいられる)、いっぱい傷つく事もあるだろうけど、でもそれはとても羨ましいね、という事を言いたかった。

 18歳の初読の時に怒りを覚えたというのは本当で、16歳のホールデンは、大人になりたい気持ちも実はあるから、煙草を吸ったり酒を飲んだりする、背伸びをするわけだ。おまけに高校を放校されるし。

 この設定、当時の私とピッタリと符合する。ホールデンは競馬こそしないけどね。私は県内2番手の高校に入ったけど見事に堕落して結局高校3年の晩春に休学を申し出た。事実上の中退、居続けてもダブるのは確実だから。高校のダブりと大学のダブりは全然違うでしょ? 私はどうしたかというと、単位選択自由な通信制高校に編入して何とか留年をせずに3年間で高卒になれた。代わりに大学受験の勉強をする余裕がなく、形式上浪人生をやるハメになった。まあその後マーチの文学部に受かるわけだけど。

 そんな時にこのライ麦を読むと、共感以上にまるで自分の分身がニューヨークを彷徨しながら愚痴をぺちゃくちゃ喋っているように思えて、土足で心の中に入られたような気がしたのだった。ホールデンのような大人の憎み方はしていなかったけれど、偽善欺瞞はうんざりだ、とは感じていた。大凡の人達の十代後半の心模様はこんなものだろう。だから今でも売れているわけだが。

 

 で、ライ麦は26章立てで出来ている。最後の26章はわずか2ページしかない。そこでホールデンは病院に入院している(村上春樹訳では〈病院〉という単語は使われていないらしい)。精神分析家がうようよしている病院に。この入院しているホールデンが、回想する体で小説が成立している。

 ホールデンは、今までの話の中に出てきた奴ら(固有名を持ち生身を持ってホールデンに接触した全ての人物)がここには誰もいない、と締めくくり懐かしい、と語って終わる。

 単純に解釈すれば、そりゃ病院の中に高校の同級生たちはいないだろう。ただ、ひっかかる部分が多すぎる。まずホールデンが入院しているのは十中八九精神病院か、総合病院の精神科病棟だろう。作中で肺炎になるかもしれない、癌になるかもしれない、と怯える場面はあるのだが、あれは冗談のような感じだったし、ペンシーの高校の寄宿舎で殴り合いの喧嘩をするが、鼻血が出たくらいだ。入院レベルの身体的な故障はない。おまけに情緒不安定なのは、サリンジャーの書き物という時点で知れている。

 そう、このニューヨーク三日間の彷徨は虚構の魂の彷徨であり、全て作り話、フィクション、ホールデンの妄想だと解釈できてしまう。

 この最後のどんでん返しを、ありきたりだ、と言うのは容易いし実際私もそう思うのだけど、上記の入院している等々はサリンジャーがたった2ページなのに、わざわざ書き足した事だ。余分な深読みを嫌ううるさい作家として定評あるサリンジャーだからこそ、この最後26章は重視せざるをえないのだ。

 これは印象論に毛が生えた程度の解釈でもすぐ思い浮かぶ事だから、きっと英米文学の研究でサリンジャーの作家論、テクスト論、その中にこの解釈の如何はかなり言及されているだろう。暇があったら知りたいし、読みたい。

 21世紀になって15年以上も経った。現在の文学研究においては、作家論、つまり書いた作者の気持ちを類推するみたいなやり方は、もはや駆逐されている。せいぜい高校生の現代文までだろう。テクスト論、バルトが提唱した〈作者の死〉から、書いた人間を空欄にしてしまって、眼前にあるテクスト(本文)をそのまま解釈しよう、そういう態勢に入ってとても長い。どういうテクスト論が展開しているのだろうか。

 

(2)スタイル、フォルム(形式)

 さてもう一つ。スタイル、フォルムの問題。

 ホールデンの饒舌な独白体で本書は形成されている。驚嘆すべきお喋りなのだが、このスタイルがとても読みにくいという感想がかなりあった。実際、私も読み難かったし、時間もかかった。何故か? これは黙って眼玉で字面を追って読むべきものではないからだ。

 物語、という単語を漢文調にカタカナを補ってみると〈物ヲ語ル〉となる。レ点をつけて〈語ラレタ物〉としても良いが、物語とは〈語る〉行為である。

 ソシュールジャック・デリダとか、パロールエクリチュールとか、そっちに踏み込むとややこしくなるので控えるが、言葉というのはまず音声として先にあった。後から文字として表記するようになった。識字率が急激に上昇するのは近代なので、それまでは、話を知っている人間が喋って聞かしたはずなのだ。

 だいたい、我々が慣れてしまった一人称体の小説って、よくよく考えてみると何か書き方が変ではないか? 例文などを用意して解説しようかと思ったけど面倒くさくなってきたので割愛。

 とりあえずだ、文字、言葉というからには声に出して読めるわけだ。実際、今は詩のボクシングみたいに詩か短歌俳句しか詠み上げないけど、実は文学賞の授賞式でも、受賞の記念として作者が小説を読み上げる、なんて事もあった。短篇に限るとは思うが。

 その時に一番違和感がありそうなのが会話文の連続。「」で囲って、間に、と私は言った、などを含まず会話文の連続の場面がある。それを声に出して読み上げてみると、おかしいぞ、と気づくはずだ。何だか演劇のシナリオ、ト書きを読んでいるような感覚になると思う。

 これは私の根拠のない考えだが、文字が発明されて以来、ほとんどは三人称だったのではないか、と思う。神話や、宗教の聖典、聖書とかそういうものだが、みんな三人称だと思う。例外ってあるんかな? 神様ナリキリをしないと一人称にならないはずだが。まいいや。

 この会話の連続などといった一人称でおかしく感じるものは、三人称だとおかしく聞こえない。まず散文は三人称が基本にあって、そこから無理やり一人称を編み出したのではないか。結果、書き言葉専門的な書かれ方がなされ、次第に受容されたために、ヘンテコな一人称体小説がまかり通っている可能性がある。

 一人称体小説の〈私〉の発展は、近代文学の〈私=近代的自我〉の発見と探求、みたいな事を書かれる事が多いが、おかしいものはおかしいのだ。カッコつけるな。

 

 つまり音声として声に出して読み上げた時に、不自然、違和感を覚えない書かれ方をした饒舌で独白体な本書ライ麦畑でつかまえては、理想的かつ正当な一人称体ではないか? 

 こういう事も考えながら読むと、不朽の名作ライ麦畑でつかまえてを、より楽しく読めるのではないだろうか。