2017 昔書いた読書感想文 谷崎・安岡・直哉・中上2つ・ヘッセ・藤村

 データの整理をやっていたら4,5年前に書いた感想文が出てきたので、一部を紹介。中上の感想文だけ明らかに文字数が異常に多いのだが、昔からそれほど好きだったということでしょう。

 

「潤一郎ラビリンス〈13〉官能小説集 (中公文庫)」
谷崎 潤一郎 中央公論新社 880 円
読了(2012-02-04) ☆☆☆★
大正2,3年に発表された「熱風に吹かれて」「捨てられる迄」を主とする作品集。谷崎の初期にあたり、その作風は悪魔主義マゾヒズムが顔を覗かせていて、その面において特筆すべくはない。また官能小説集と銘打っておきながらその「官能」の趣も弱い。要は初期谷崎を読みたい人向けのものである。
さて、解説の千葉が語るものの方が面白く、曰く「熱風に吹かれて」は漱石の「それから」がモデルであるという。そして「捨てられる迄」は「門」にて落ち着いてしまった熱愛への批判的続編として書かれたと。
そう見ていくと面白いのだが、「熱風に吹かれて」はまだ読めるものとしても、「捨てられる迄」は冗長が過ぎ欠伸でも出そうな叙述が文字面一杯で、結に至っては急すぎる。というわけであって、「熱風に吹かれて」と「それから」はまだ勝負になるとして「門」と「捨てられる迄」は「門」の圧勝である。
「捨てられる迄」はあたかも「刺青」を間延びさせたような不出来な作品だ。「刺青」はあの短さと観念だけで書かれたから良かったのであって、「捨てられる迄」のように現代劇としてしまうと途端に平々凡々になる。

 

「幕が下りてから (講談社文芸文庫)」
安岡 章太郎 講談社 918 円
読了(2012-01-29) ☆☆☆☆
まず初めに、この小説を理解するには、戦後というキーワードを常に頭の中に働かせねばならないという事がある。しかも焼け野原ではなく表面上だけ復興、いや以前より物質的に発展していった戦後における日本人の精神性の問題を扱っている。これは偶然にも2011年3月11日以降の現代の我々と何処かダブる所を感じた。東北はいまだ機能しきっておらず、原発事故は現在進行形で片付いておらず、謂わばそれらが片付いた世界こそ、「もはや戦後ではない」と言われたこの小説内の世界であり、そこに心の空虚さを持て余している人間がこの小説の謙介なのだ。

えらく読みづらく、「海辺の光景」に比べれば整理のつかない複雑さを持った小説で、毎日出版文化賞を受賞しておきながら安岡文学の系譜においては語る事が半ば避けられてきた気配すらある。
この小説は確かに読みづらい。読み進めるのがいやに時間がかかる。それは時間軸がフワフワしているからだ。現在から過去へ、という大まかな流れではあるがそれこそ、過去の時期は順序を気にせず断片としてギザギザ入り込んでくる。そうした錯綜の中で主人公の内面の不安定さと感じている不気味さ、空虚さといったものを表現しようとしている。とても難解だ。駄作だ、と切って捨てられないし、傑作だと褒めちぎれない。
しかしこの表題にもある「幕」は下りており、下りてからの物語なのだ。そう、幕はもう下りている。戦争中という幕も、戦後の気分という幕も下りている。その舞台裏の人間の心模様の気味悪さとして読めば解釈も理解も味わいも違ってこよう。


「大津順吉・和解・ある男、その姉の死 (岩波文庫)」
志賀 直哉 岩波書店 632 円
読了(2012-01-24) ☆☆☆☆
志賀直哉文学のメインパート、父との不和をテーマにした三作を収録する。これは岩波文庫だが重版はしていないようだ。
一等重要なのは言うに及ばずの「和解」である。私は志賀の最高傑作は「和解」であって、「暗夜行路」は短篇を継ぎ出しただけの中の下の作品だと思っているが、志賀直哉を理解するには読まねばならるまい。その「暗夜行路」の前に読んでおくべきもの、それが大津順吉・和解・ある男、その姉の死という事になる。せめて「和解」は新潮文庫で単独収録で今も出回っていているので読んだ方がいい。
さて、内容から並び替えるならばあとがきの志賀の言葉通り、大津順吉→ある男、その姉の死→和解となる。この三篇はあたかも連作中篇のような趣がある。「ある男、その姉の死」は主人公の弟の語りでやるのだが少々出来が落ちる。一方で「大津順吉」はその青春の葛藤と恋愛問題、そして父(+祖母)との確執という点において緊張感は優れたものがある。言ってしまえば若様のご乱心による女中とのふとしたお熱、というようなものだが父に対し悪感情しかない私は非常に共感できた。志賀風の短文にして美文も冴えている。

 

「奇蹟―中上健次選集〈7〉 (小学館文庫)」
中上 健次 小学館 880 円
読了(2012-05-29) ☆☆☆☆★
路地文学のサブストーリーの中でも存在が際立ったスピンオフにも似た作品群、中本の血の一統を主題にした「千年の愉楽」と並立する、タイチの一生を書いた小説。物語は中上が築き上げたメインパートの秋幸三部作で明確に示した紀州サーガの歴史を語るかのごとくだ。語り手(ではないが)としての一応の機能を持つ今はアル中で精神病院の中のトモノオジが、幻覚でオリュウノオバとオジ自身の、そして路地の代々の若い衆達を回想するというもの。
トーリーは時間軸に多少の屈折こそあれど素直にタイチの一生をなぞっていく。中上の小説の中ではよく使われる極道、ヤクザストーリーとしての、男たちの権力抗争は単純に面白い。立派なストーリー性を持っている。

しかしことはそう簡単ではない。この小説が異様なのは、その語り方、描写の方法論だ。それら全てを詳細に語るにはまだ読みが足らない。解説は「大鏡」の二人の回顧話に批判者が一人加わるという形式のパロディとも言う、なるほど。この小説はアル中のトモノオジの幻覚の中で、既に死んでいるはずの産婆オリュウノオバとの会話という形だがそれは借り物で、正体不明の三人称体を持つ語り手が現れる。
そういった奇妙な形式の中で語られ続けていくタイチとその朋輩の物語は、常に人間と人間とではなく、人間であらざる者、「幻覚」的な声や視線が奇妙さに拍車をかけるような変奏曲を奏でる。「幻覚」というセンスを描写するということが、中上がこの小説で挑んだことではないか。同時期に村上龍が「イビサ」を書いており、それに陣野俊史は「龍以後の世界」の描写論で言及している。90年を前後するこの時期に、中上と村上は何か小説という散文の可能性の限界を突き破ろうとした感がある(なおこの時期、春樹はノルウェイの森を出してヘラヘラしていた。)
例えばトモノオジのアル中にもたらされた幻覚は自身が魚の身になり湾とあたかも同化しているかのような感覚で始まり、語り手の中での生前のオリュウノオバは仏教的幻覚を何度となく味わっているし、アキユキの異父兄として首を括るタイチの朋輩、イクオはヒロポンの幻覚によって命を絶つ(言い忘れていたが、これが中上の中で繰り返し出て来る発狂して殺してやると言いながら家へ来て首を括った兄のそれである、加えるならトモノオジの朋輩のイバラの留は浜村龍造である、イクオに関してはイクオ外伝という章でその死ぬまでが描かれている。それもこの小説の魅力だ)。ヒロポン覚醒剤といった麻薬的と、宗教的な幻覚の描写は、それがもう一つ別の、トモノオジでもオリュウノオバでも正体不明の語り手でもない「誰か」の視線であり声である。
この小説は、思った以上に前衛的で、中上のマジック・リアリズムという手法の範疇に収まらない描写論を射抜こうとしたものとして受け取るべきではないか。

 

紀伊物語 (集英社文庫)」
中上 健次 集英社 550 円
読了(2013-01-31) ☆☆☆☆★
単行本84年刊行で『地の果て 至上の時』の直後といってよい。テクスト内の時間はちょうど路地が削り取られるその瞬間を前にした状態で、「秋幸三部作」で見るならば『枯木灘』と『地の果て 至上の時』の間ということになる。当然、秋幸は秀雄殺しで大阪の刑務所にいるから出てこないが、道子を新宮の路地へ誘い込むのは唖のヨモノオバに育てられた〈良一〉だし、〈モン〉も出てくれば、名前だけだが路地撤去を実際に取り仕切った〈竹原繁蔵〉、〈美恵〉と〈実弘〉、テクスト内で臨終の床にある〈オリュウノオバ〉も出てくる。おまけに暴走族の頭で『地の果て 至上の時』で重要な役割を追う鉄男は〈テツオ〉として登場する。

本テクストは二部構成になっている。南紀地方の紀伊大島が舞台の『大島』、路地撤去が間近の末期を中本の一統で『千年の愉楽』にも登場した〈半蔵〉の二世を軸にしたものの二つ。連作でも中篇集でもなく一つのテクストに成り得ているのは〈道子〉の存在による。
『大島』においてのありようは、南紀地方でも純粋な島として周囲から海で隔絶された(しかし相当に紀伊半島に近い)紀伊大島の名士的家柄の娘、〈道子〉の女への目覚めが軸になる。父の広尾と、女郎であった母キクの落し胤として父系の系譜にいる〈道子〉は、祖母を通して、島より外の人間を嫌う。対岸の西向からその昔、漁港に鯨の屑肉を拾いに来たというニシムカエを、一切の外部の卑しいものとして扱い、己こそ広尾の種より生まれた大島生まれであるが、祖母も後妻の富枝も他所者である、ニシムカエであるとして排除しようとする。ニシムカエは疑いもなく被差別者の蔑称であろう。家柄の矜持をアイデンティティにする〈道子〉は非常に排他的な、箱入り娘のような傲慢さを隠しもしないが、本当の母キクへの思いが捨てきれず、そこに〈良一〉が土方仕事でやってくる事により、女郎であった母キクの《物語》を《反復》するように性の花を開かせてゆく。母キクが、実は路地にいた静子という名の女であったと判明して〈道子〉は路地に入る。静子もまた路地の生まれではないが、路地に流れ込んだ者であるので、《物語》の《反復》性が否が応にも強調される。紀伊大島では女王然としていた〈道子〉は、路地に入るやいなやその主体性を失ったように影が薄くなり先行する《物語》に吸収されていく。
続く『聖餐』は、『大島』と地続きで時間もそのまま連続して延長線上にある続篇とでもいうべきものだが、主人公格から〈道子〉は脱落している。文量は『大島』の二倍ほどあり、三人称単一で〈道子〉を追った『大島』とは大きく異なり、路地が舞台になることで誰が主人公格なのか判然としない。言ってしまえば末期の路地そのものが主人公である。
〈道子〉における静子の《物語》は傍系へ押しやられ、『千年の愉楽』にてクローズアップされた中本の一統の末裔たちが躍り出る。末期の路地において、〈オリュウノオバ〉は〈道子〉の宿命を予言するような言葉を吐いてついに他界する。一方で中本の一統のとりわけ〈半蔵二世〉は四人組のロックバンドを組み、死へと導く歌を際限なく歌い、実際に毒入りジュースを用意して路地とともにみな死のうとうそぶく。〈オリュウノオバ〉が死に、路地がテクスト末尾においてついにショベルカーの爪が襲いかかる瞬間を描いて、それまでの路地が保っていた神性と共同体は崩れていく。あれほどまでに崇められた淫蕩で美男揃いだが若死を運命づけられた中本の一統は、路地が崩れていくその場では邪険に扱われ気色悪がれるのだし、女版秋幸とでも言える静子の《物語》を継承し、異父兄のロックバンドの一人定男と、兄妹心中よろしく近親姦をし子を孕む〈道子〉もまた、路地健在であったなら秘事として語られ守られたであろうに、路地のオバ、イネらに拒絶される。
これ以上、《物語》の《反復》を挙げていっても冗長になるのだが、路地の〈道子〉と同年代の善視は、預け先のない位牌を進んで預かって、死んだ者の祥月命日、誰の子でどういう死に方をしたか諳んじて、オバらから〈オリュウノオバ〉のようだと言われるのだが卑小な《反復》でしかない。産婆として生の入り口に立つ路地のグレートマザーとしての〈オリュウノオバ〉には到底及ばぬ、十幾つの位牌を預っているに過ぎないからだ。
『地の果て 至上の時』において、服役を終えた秋幸が見る更地となった路地跡という衝撃的光景までの、路地の最期の時を中上自ら、『熊野集』のようなルポとも私小説ともとれるものではなく、紀州サーガに属するテクストとして描いた点は大きく、また『千年の愉楽』の分かりやすいほどの脱構築的なありよう、自壊のありようが示されている。そして路地の末期という時空間が、あたかも平安末期における末法思想のごとく再現されている点が、一番の評価のポイントであろう。複雑化する語り様とその文体を、時にオバやイネを視点に借り、センテンスの蛇行の仕方は音韻を(i)で揃える独特さも磨きがかかっている。紀州サーガの一つのストーリー、「秋幸三部作」の傍系の一つであると、それだけで評価を落とせない所以が以上の事柄である。

 

荒野のおおかみ (新潮文庫)」
ヘッセ 新潮社 540 円
読了(2012-11-13) ☆☆☆☆☆
原題Der Steppenwolf.ステッペンウルフ、荒野のおおかみ。1927年に書かれ、第一次世界大戦後のヘッセにおける精神的危機の中、その自己告白と自己分析の書として読むべき、いや読んでしまったので、文明批評うんぬんはあまり気に留めなかった。もちろんその意図や発露は見受けられてわかるのだが、大切な、重要事は前述した方面ではなかろうか。
この小説は、イージーライダーのボーン・トゥ・ビー・ワイルドなどを担当したバンド、ステッペンウルフに名を借りられた事からも明瞭であるように、ヒッピームーブメントと深い親和性を持っている。この手の、ヒッピー的作家あるいは作品というのはあって、それは少々先取りしたビートニク世代の仕事群、またはサリンジャーの仕事群がそうで、例えば東洋思想賛美とその理屈のかなりの衒学さ、または享楽的かつ刹那的な生き様、そして衒学さをあえて嫌わずブチまける心理分析の描写などが特徴として挙げられよう。
ヘッセのこの荒野のおおかみもそれはある。だがこの小説はユング派におけるシャドー(影)との対話から自己診療めいた深刻な精神的危機に対し挑むものであり、理屈は出張ってこず、衒いはない。難解だと言われがちなヘッセの作品の中であっても、その表現においての豊かな語彙の使用と、深く、深く、その深淵へ、自我の最奥へ多大な勇気でもってして突き進んでいくヘッセのそれは、決して読みやすからず、ひどく学問的な香りのする字面の洪水の中で、読み手を決して離さない、異常な緊張感が、特に後半において加速していく。
思うに登場人物の主人公ハリー・ハラーがヘッセの自画である事は当然、ヘルミーネはヘルマンの女性形名詞で、魔術劇場で七変化するパブロとは、前者はヘッセの女性的なシャドーであり、享楽的なジャズ奏者のパブロはヘッセの純粋なシャドー、両者とも無意識層において抑圧していたヘッセのもう一つもう二つあるいは無際限の人格であろう事は間違いない。まるで精神分析学の夢分析における患者の語る<夢の話>のようであった。そこに一流の作家たるヘッセが小説に仕立てたのだから、第二次大戦以降の作家群が、ヒッピーたちが担ぎあげたのも肯ける話である。
あまりに啓示に満ち、あまりに豊かでかつ深刻で、あまりに心を動揺させられた本書をもっと早く読んでおけばよかったように思う。この不安な時代の現代に、科学の化けの皮が剥がれ、第二次大戦後のような、欧州的理性の敗北としてのような野蛮さにさらされている21世紀の我々にすら、訴え、いや侵食し影響を与えてくれる。それほどの普遍性をもった魂の書と言ってしまいたい。

 

「破戒 (岩波文庫)」
島崎 藤村 岩波書店 735 円
読了(2012-05-10) ☆☆☆★
岩波は初版本を底本にしているらしい。野間宏曰く後年、水平社から糾弾され「穢多」を「部落民」に書き換え、以下生ぬるくなった故に、こそ初版本を読み、そしてこの小説の登場による功績を讃え、かつ現代文学の眼で以てして批判せよ、と。
花袋と並ぶ自然主義文学の巨匠にして日本文学、特に言文一致以降の本格散文小説の夜明けを告げた作品である。自然主義であるという事から、つまり告白の文学となる。小学教師瀬川丑松は、亡父の唯一の戒め、「穢多であると打ち明けるな」を悩み苦しみながらも最後に告白し、戒めを破る。それは人間のありのまま(自然)を曝け出すという事であり、また同じ人間という生き物に貴賎の差なしという自然科学の考えも入ってくる。
なのだが、野間の言葉を引用するでもなく、この小説には様々な欠点がある。重大な点は、藤村自身に、また小説全体に差別意識の存在がありありと反映され、それを理論で以て対抗できていない事。これは無理からぬ事と言ってしまえばそれまでかもしれない。藤村は旧家の子である。部落民でない人間に部落民の苦しみは書けない。被差別部落民が被差別部落を書く、そういう事件が起きるのは藤村の死後20数年先、中上健次の登場を待たねばならない。
他には、なるほど筋はなかなか出来たものであるが、結に至る部分でのこの楽観的と言おうか、トントン拍子の進め方は何だろうか。部落出身の丑松がついに出自を告白した後、途端に彼への扱いは優しくなるのだ、小説自体が。勧善懲悪風味でもありこの点は評価はできないだろう。
ただ結に意外に良いと思ったのは、新天地を求め信州からアメリカのテキサスへ渡るという結末である。アメリカは自由の国、という認識が明治39年の日本人の共通認識だったかは定かでないが部落民であると打ち明けた以上、もはや日本に住む処なし、ならばアメリカへという発想は現代に通ずるニッポンという社会への強烈な批判になりえるだろう。
最後に。明治期の小説としては意外なほど文章は簡潔を心がけていて飾る調子も衒いもない。と言って表現力に乏しいのではなくむしろ逆で素朴な筆の中に心象を重ねた見事な筆の運動で人を景色を描いている。のちのちゴテゴテと飾り立て、あるいはスカスカにしてみたり、日本語文章は迷走に迷走を重ねているが、この小説の文章を読むとそんな事が馬鹿らしく思えた事を記しておく。