読書と競馬

競馬は文学である

2017 昔書いた読書感想文 Part2 犀星、柳田、ヘミングウェイ、中上

 前記事の続き。青臭すぎるのは退けて、まだ読めるものを紹介。

 

或る少女の死まで―他二篇 (岩波文庫)」
室生犀星 岩波書店 693 円
読了(2013-05-17) ☆☆☆★
たとえば犀星を専門にする人は、どのようなものであっても欠陥を認めつつも容赦をしたり擁護してしまうだろう。それは作家への愛だ。作品、テクストへの愛ではない。
心境小説にもなりきれてない小説としての処女作「幼年時代」を私は諸手を挙げて評価できない。ただ、詩人を志し、まさに詩人としての立ち位置を得た犀星という作家の特有さが、文章の表現力に、感じる表出の情感と連なりに、ある一定の、ハナから散文の小説家だった人間にはできない芸当をやってのけていることは事実としてある。
それはいいとして、むしろ面白いのは、初期自伝三部作として配置された三作品が、まさに次作へ次作へと小説的に進歩している姿が興味深かった。作家伝をやる人には当然「幼年時代」が価値あるのだろうが、小説として優れているのは「或る少女の死まで」だ。こちらは読み手を飽かさせない技量がある。

 

「不幸なる芸術・笑の本願 (岩波文庫 青 138-5)」
柳田国男 岩波書店 693 円
読了(2012-10-21) ☆☆☆☆★
これはなかなか面白かった。柳田を昔話の蒐集家だと決めつけている人がいたら損である、柳田学入門の新書でも読めばわかるだろうが、柳田民俗学日本民族文化歴史学とでも言うようなもの。加えるなら柳田は詩人として出発し花袋や独歩と友人関係にあった広義の作家に近い人であるから、柳田の文化論は文芸論になりうるのである。本書がまさにそう。
さて、本書に収められた二つ、順序は「笑の本願」と「不幸なる芸術」でこの配列は正しい。主題目は「ワライ」から「ウソ」「ヲコ」へと続いていく。まず「笑の本願」の始めの方から、笑うという行為が非常な攻撃性を主としたものであるということを説き起こす。全く私にはこういう考えがなかったから目を覚まされた思いがした。一般に笑うのは楽しいからおかしいから愉快だから、であって、テレビをつければ笑ってくれという番組で溢れている。
しかしよくよく考えればこれは笑いの攻撃性の無化の成果なのだと思う。柳田曰く、笑う者は優位に立ち、笑われるものは劣位に立たされた。笑われるものは相当な精神的損害を被り、恥辱、屈辱の限りを味わって圧倒的な敗北感に沈められるのである。これが敵味方に群衆が分かれていれば笑いによって闘争が起こっていると言える。笑われるものは言うなれば哀れな者であるから、「吉」や「彦」を名にもつ者を主人公にした一村落に伝わる笑い話の場合、別の村の「○吉」「○彦」は~という形で別の離れた共同体、村の馬鹿者の話として伝わっていく。笑いは攻撃だからである。もし同村落内に笑いの対象が生ずるとすれば、それは村八分された、排斥された者という事になろう。それを現代に置き換えればこの頃また騒ぎ出したイジメ問題なのである、あれは笑いの原始的な性格である攻撃性が発揮されたがゆえの悲劇であろう。
笑いが多分に攻撃性を含み、刀剣に勝る武器たりえた一方で、人類は笑いを求めた。笑い話を作る際、作中で笑われるものはダメージを負うのだから、ただおかし楽しい笑い話を作るにはウソが要った。そのウソの効用は~、と続いていく。ちなみにヲコは馬鹿の事であってこの単語の意味と用法の変遷も説いている。が、解説の井上ひさしも言っているように柳田はヒントと実例だけ語っておいてこうこう、こうである、と結論してくれない。ああ、なるほど、すごいや、とこの本を読んでいて何度となく感嘆して、さてどうまとめてくれるか? と期待して読み進めると他の周辺へいつの間にか文意は移っている。
食えない人間だと思った次第だが、笑いという事象やウソの考察は優れていて独創的である。創作をする人は読んでおけば得になると思う。特に「笑う」という状況を創作散文の中で従来通りのシチュエーションでしか使えていなかった人にとっては何がしかのヒントになるだろう。

 

「われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫ヘミングウェイ全短編)」
アーネスト ヘミングウェイ 新潮社 740 円
読了(2011-10-04) ☆☆☆☆☆
ヘミングウェイ全短編の1、高見浩訳。「われらの時代」「男だけの世界」を作品集題に据えた30編ほどの短編から成立する。とりわけ「われらの時代」の合間にカットインされるスケッチの描写も入れると収録された文章は非常に多い。パリ時代、ヘミングウェイ初期の全てを読み込むのにうってつけの短篇集だ。
ヘミングウェイのその小説の特徴、中でも短編に強く表れる「省略」「強調」「氷山の理論」の造成と練磨の過程が窺い知れる。一等重要なのは氷山の理論で、氷山は海面上に見えるのはわずか20%に満たない。重要なのは海中に隠れた80%である、と。簡潔にして深みのあるこの文体はハードボイルドという文芸用語で語り継がれていくがやはり現物にあたった方がいい。
それからやはりヘミングウェイは男のための文学だ。彼の表面上の題材は、戦争、釣り、闘牛、競馬、格闘技等々だ。男どもが血を沸き立たせ、時に涙するほどの感動に包まれる男の趣味嗜好をここまで上手く書ききる作家は古今東西探しても滅多にいない。
各短編をよく登場するニック・アダムスの成長ストーリーとして読むのも可能だが、私は単にヘミングウェイの分身の少年としてだけ捉え、短編一つ一つを独立させ味わった。
文体の簡潔さと氷山の理論から、語り口もストーリーも何も難しい事はないのに、味わおうとすると、いやどういう小説なのかと解釈しようとすると非常に読み手に頭を使わせる小説ばかりだ。だからきっと読了するのに時間がかかる。だが読み終えた後に、他の作家が如何に文章や筋書きを肥え太らせていたかがわかるだろう。肥満は醜悪である。
個人的に特に気に入ったのは「インディアンの村」「三日吹く風」「ファイター」「兵士の故郷」「ぼくの父」「破れざる者」「白い象のような山並み」「五万ドル」「十人のインディアン」である。

 

「讃歌―中上健次選集〈8〉 (小学館文庫)」
中上健次 小学館 880 円
読了(2012-08-14) ☆☆☆☆★
かくも哀しきや、中上よ、と思わず印字された文字に文章につぶやきたくなる。どのような批評用語であっても構わぬ、トポスでもよい、磁場でもよい、あるいはストレートに新宮市の架空化された路地でよい。もう路地は本当にないのだと、こんなに切なく書く必要が本当にあったのか。
物語は正史とでも言うべき時間軸に沿っていて、「地の果て」以降の路地解体ののちの後日譚たる「日輪の翼」の続編となる。これ以降は未完作である「異族」へと繋がる。
「日輪の翼」のツヨシはイーブと名前を変え男娼稼業をしている。徹底的に自己を性のサイボーグだと言い聞かせ、どんな年増女だろうと、たとえ同性であろうと性を売る。秋幸三部作以降の中上における性描写は官能の度合いを強めるのと反比例するように記号性が高まる。この作においてもそうで、中上が同性愛性交から輪姦までおよそ描けるもの全てを描写するが何処か乾いていて、路地よ、オバよと泣いているように見える。
路地=被差別部落地区の実際上の解体のあと、中上は新たな路地的トポスを探すのだ、と思った。それはこの作の前半~中盤にかけてのもとは赤線であった新宿二丁目というゲイエリアが疑似的路地に近いものを感じさせるからである。そう読ませようという意図があるとしか思えない。ここのオカマバーのママどもはマジックリアリズムにありがちな、閉鎖性を含んだ特定地区の中でソース未確認の噂=口承の拡散を行っている。不確実な言説の広がれる場所、周囲から異化されたような地区として新宿二丁目を機能させてもよかったろうに、やはり夏芙蓉を見つけ出してしまい、「日輪の翼」で姿を消した3人のオバを見つけてしまう。オバらは路地なき今、天子様のいるこの東京で死にたいと言う。書かれた年月日は87年。先の昭和帝の御世である。同じく「日輪の翼」以降、男娼に転じたターこと田中さんも合流し、熊野弁が飛び交う懐かしいダイアローグが展開される。だがターはイーブに何度となく問う。どこへ帰る? どこへ行く? イーブは明確に答えられない。三人称である以上、これは書き手中上が答えられないのと同義だ。かくして折角見つけたオバらを再度見失い振り出しに戻り、標準語を操り再度サイボーグ化したイーブは、路地でないここではマシン化して生きるほかないというように男娼稼業へ戻ろうとする。
もうこれ以上、路地に関わる事はできない。書き手は近づく死を知ってか知らずか、また新しい物語を探しに旅立つために、ここにピリオドを打って新しい小説へ向かう。