2018 『極楽とんぼ 他一篇』里見弴(岩波文庫) 感想

 長篇『極楽とんぼ』(初出「中央公論昭和36年1月号)、他に短篇『かね』(初出「改造」昭和12年1月号)を収録する。
 里見弴――、寡聞にして実兄に有島武郎、生馬を持ち、白樺派に属す、といった程度の知識しかなく、そのせいかどうか、なかなか手が伸びない作家だった。本書収録の二篇を読み終えて、なぜもっと早く読まなかったかと悔やんでいる。とても面白い小説だったからだ。
 ことに文体がとても良くて、読点で息継ぎしながら長く長く伸びていく文章は軽妙洒脱。饒舌体との一言では説明が不十分、「小説家の小さん」(柳家小さんの名から)との異名があったそうだが言い得て妙で、軽やかで流れるような粋な文章を読んでいると何だか寄席に来たような気持ちになる。目で文字を追っているのに、いつの間にか耳で落語を聞いているような感覚になって、あっという間に惹き込まれてしまった。
 
 表題作『極楽とんぼ』は富裕で子沢山な吉井家の七人兄弟のうち、三男坊として明治18年に生まれた周三郎という道楽者の人生を先に述べた独特な文体で綴っていく。
 題名の通り、のほほんとしたお調子者で、怠け癖がひどく、学校嫌いで頭も鈍く、進級試験に落第、原級留置を何度も食らうくだりは思わず苦笑するとともに、劣等生として嫌な思いもして苦労している様も見受けられる。屈辱もあった様子。
 一方で性の目覚めは早く、次第に女遊びに手を出し、身を立てるなどできない甘ちゃんだから金を無心しいしい、遊び放題。けれども惚れ込んだ女ができればきっちり愛して、割合、一本気めいたところもあって軽薄とは言い切れず、憎めないとはまさにこのこと。
 飄々と、場当たり的な適当さで呑気に空中に浮かぶトンボのように、のらりくらりと過ごしていくが、年を食えば避けられない死別など、楽しいばかりでなく哀しい出来事があるのが世の常というもの。父の死や妻の自殺、阿片中毒になった遊び仲間の発狂などには大泣きするし、関東大震災や戦争など、時代は暗くなってゆき、剽軽さを発揮する場も少なくなって、悲哀の色が濃くなり、さすがの周三郎も何度かどん底に落ち込む。
 それでも持ち前の明るさといい加減さを取り戻し、何度でも立ち上がる姿には胸に来るものがあった。良いこともあれば悪いこともあるし、笑いあれば涙もある。人間の一生を過不足なく描き切っている傑作と思う。
 
 併録作『かね』は犯罪奇譚と言ってしまえばそうかもしれないが、やはり一言では言い表し難い佳品となっている。
 主人公の他吉は勉学が一切できず、早々に丁稚に出されるが、どこに出しても仕事が覚えられずに時には実家に返されてしまう哀れな男だ。おまけに吃音もあって、馬鹿にされ、いつしか自ら口をつぐみ、孤独でみじめな日々を送る内に、ずいぶんと時間が経って五十の坂を越してもなお、雑用程度しかこなせない下使のまま、誰とも仲良くなれぬまま、敗残者として年を食っていく。死に病となった父の介抱をしている時に、父が言い放った言葉が他吉の一生を大きく変える。 
「一生の間に、何かひと仕事し残さなくては駄目だ。ああ、俺も、あれだけのことをしたんだからと思えば、ほんとに、にっこり笑って死ねる。残念ながら、俺にはそれがないのだ。(…)ひとつ、ひとが吃驚するような大仕事を仕出かしてみろ。(…)一生何一つ仕出かさずに死ぬということが、あんまりいい気持のものではない、ということだけ話して聞かせて置きたかったのだ。」(pp.194-195)
 最初は下使として勤めていた銀行の上役からこのくらいならできるだろう、と多額の現金を別銀行に届ける役目を任されて、運んでいる際、やるなら今だ、と一大決心をし、現金を持ち逃げする。これがうまくいったことを機に、大金持ち逃げを何度も繰り返す。しかし、逃走先として朝鮮や満州にまで行きながら、持ち逃げを繰り返してとんでもない額になっていた金に一切手を付けなかった。他吉の往生の際には、楽そうな、と形容される。
 つまり、金額ではないのだ。そしてまた豪遊することでもない。大金を盗むという大胆な犯罪=ひとが吃驚するような大仕事、それが出来損ないの人間である他吉の人生を面白おかしいものに変えたわけだ。こうやって書いてしまうと平凡な筋のように思われそうだけども、冒頭に書いたように、独特な語りの文体でユーモアたっぷりに、魅力的に描かれている。
 
 表題作は戦後に書かれたもので、併録作は戦時中のものだが両作とも、馬鹿というか頭が悪い、愚鈍で、無能で、ダメな男の数奇な一生を書いている点が共通している。題材の選び方が面白い。そして、これが重要だと思うのだが、シリアスというか、深刻ぶった箇所はかなり少ない。にやにや笑えてしまう部分は多数ある。機知に富んでいて、軽やかな文体で書かれた二篇の読後感には、爽やかさすらあった。
 なにも暗く重苦しく鬱屈した調子でなくとも、人間を描けていれば立派に文学になると、当たり前のことを里見弴から証明されたような心持ちになった。『極楽とんぼ』も『かね』も笑いながら読める人生賛歌の小説だろう。生きるのは最高だ、ということだ。