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2018 『ギッちょん』山下澄人(文春文庫) 感想

収録作
『ギッちょん』(初出「文學界」2012年6月号、12年度上半期芥川賞候補作)
『水の音しかしない』(初出「文學界」2011年12月号)
『トゥンブクトゥ』(初出「文學界」2012年12月号)
コルバトントリ』(初出「文學界」2013年10月号、13年度下半期芥川賞候補作)

 硬い文体や、装飾過多な文体、あるいは飾らない文体など、作家の個性によってあまたあるそれらの中において、山下澄人の場合、初めて読んだ時にはどうにも拙いという印象を抱いてしまう文体なのだが、これが巧妙に不安や不穏を感じさせるものとなっており、戦略的に選び取った文体なのだと気づく。この点だけでもただ者ではないとわかるはずだ。
 それから山下澄人の小説は物語性は重要ではないのであらすじなど書くのは無意味だし、いや、正直に言うとどういう話だったか、読み手が混乱するように書かれているので、わからなくてもよいと思う。実際、私も途中からどんな話だったかと考えるのはやめた。物語性の否定は、何も今に始まったことでなく、現代の純文学(純文学というカテゴリーがまだ生きていると仮定して)では、主に日常を細やかに書いていく小説群の中で物語性などとっくに捨てられているものだからこの点に限ってはそれほど珍しくはないのだが、山下澄人の場合、否定などといった生易しいものではない。物語性、ストーリー性はズタズタに解体されている。

『ギッちょん』
 この短篇では節の記号として置かれる数字が主人公の年齢、そして叙述の順を表す機能を持っている。たとえばこんな具合だ、「32.34.30.34.07.35」、つまり32歳の頃、34歳の頃、30歳の頃、34歳の頃、7歳の頃、35歳の頃、を書いているという風に示されていて、しかも年齢が変わる時に空白一行開けといったわかりやすいサインは一切ない。しかしながら、むしろ、本作は読み手に優しい方だ。時間を何の躊躇もなく次々とめまぐるしく変えていく独特のスタイルは継承されていくのだが、本作以降、このような親切な時の移り変わりのヒントを与えてくれなくなるからだ。それで、この節が年齢を示すということは読んでいればそのうち誰でも気づくのだが、それに安心して気を抜いているとあっという間に、時空の歪みに引きずり込まれて、〈わたし〉の存在が曖昧で混沌としたカオスな世界に気づいたらハマっていたとなりかねない。また〈わたし〉の存在がどうのこうのという問題のみならず、〈わたし〉が分裂していく感もある。
 こんな風に書いていくと幻想的、などという形容を押し付けたくなるが、そんな古臭い定義なんて不似合いだ。有機的な繋がりがいつしか断ち切られたかのように、リアリズムの埒外に読み手は放り出される。しかしか細い糸が健気に小説全体をこっそり繋いでいたことが、最後まで読めばわかるはずだ。この繋がりが何とか読み取れるということも、まだ読み手に気を使ってくれていると言える。
 しかしながら、ここに書かれているものは何なのか、とか、神出鬼没の〈ギッちょん〉や、〈わたし〉は何者なのか、とか、そんなことを考えるのも野暮に思えるような、小説として成立するギリギリのライン上でふらふら揺れている世界に、山下澄人は読み手を誘い込んで、目眩を起こさせる。山下澄人の特徴と、まだ読みやすさを持っている『ギッちょん』を先頭に配したのはうまいと思ったものだ。
 
『水の音しかしない』
 これも自分の存在が揺らぐ話として読んでよいだろう。とある日のある時間、今までいた人達が忽然と姿を消されてしまった世界に主人公が迷い込む。アイデンティティの喪失というか、自分が自分であることを保証する外的事象、自分が自分であると信じられる要素が、いかに自分の外の情報によって支えられているか、そしてそういった馴染みある普段の人付き合いやなんやかんやの外的事象が全て奪われた時に果たして自分は自分であるとどう証明するか、どう信じればよいのか、といった居心地の悪さが書かれていく。不穏より不安が煽られる。
 しかしながら、途中で3・11の大震災と津波がこのような事態をもたらしたのだと示された瞬間、ちょっとがっかりした。これは安直ではないか。いなくなった人々、昔とは変わった風景、どこかおかしい世界は、わかりやすさを含んだ非現実的な世界、大量の人間の喪失(死)を体験した世界という文脈にどうしても回収されてしまう。こんなことは他の作家でも、というか誰でも書けるので、わざわざ山下澄人が書く必要はなかった。山下澄人の場合、大震災や戦災などといったリアルな現象などに頼らなくてもぶっ飛んだ不可思議な世界を構築できるからだ。もちろん山下澄人らしい錯綜具合が展開されているので、読み手をじゅうぶん困らせてはくれる。質は良いからこそ、安易に流行りに乗ったように3・11を核心に置いたのが少々残念だった。
 
『トゥンブクトゥ』
 山下澄人の本領発揮といった様相を呈す。
 二部構成で、第一部では、とある電車の中の数人の乗客の、それぞれに抱える生活を垣間見るところから本作は始まっていく。都合、一人称の〈わたし〉が三人、内訳は突然蒸発したいと思い立つ〈わたし〉、水族館に勤務する〈わたし〉、会社のごたごたと布団屋ごときに罵倒される女の〈わたし〉、そして三人称で書かれる老人一人、そこからどんどん登場人物が増えていく。
 複雑な叙述のありようは、ブレーキを踏むことなく振り切っているメーターも気にしないでどんどん錯綜していく。その中で三人の〈わたし〉は分裂というより、個人として個性を持ち、独立していた存在だった〈わたし〉達が、急に重なり合うというか同一化していき、独立性がなくなってしまう。個性が消えるのだ。それは三人称で書かれる場面でも同じで、増えていく登場人物達も最初は独立した個人だったのに、境界線が崩れて、その人をその人だ、と保証することができなくなる。ここでも存在の是非がキーとなっているのだが、〈わたし〉が複数に分裂していくのならまだしも(星野智幸の『目覚めよと人魚は歌う(三島賞受賞作)』に、分裂していく個人といった現象があったような覚えがある、『俺俺』(大江賞受賞作)もそんな感じだったから分裂していくなら前例はある)、各個人として独立性を保っていた〈わたし〉達が、一つの〈わたし〉に詰め込まれていくありようは衝撃的なのだ。何なのだ、この小説はとびっくりしてしまう。
 
 第二部では、第一部の歪んだ現実世界から明確に、現実世界ではない、異空間のような海辺に登場人物達は飛ばされている。
 そこでは第一部で起こった出来事が歪んだ状態そのままで引き継ぎがなされ、どの〈わたし〉なのか最低限の区別はできるように書かれているが、一人称の〈わたし〉だったり、と思ったら三人称多元視点になったりと、人称や視点がぐるぐる変わるので、何が何だかもはや説明できない。一応の解釈として、第二部はその乗客達などの登場人物が同じ夢を見ていたか、第一部に脇役として出てくる寝ている老人(三人称で書かれた老人とは別)の夢の中を書いたとも解せないこともないが、その夢らしき不穏で不安感に満ちた危うい世界を創り上げている文章のスタイル、人称や視点の頻繁な変化を、これは夢の中だから、といって扱いに困るから無視するようではあまりにもったいない。
 ここで名前を出したいのは〈移人称〉という用語。提唱者の渡部直己がセクハラの件であんなことになってしまったので、〈移人称〉なる用語もだいぶ株を落としたかもしれないが、どうしても山下澄人は〈移人称〉といった新しいスタイルを貪欲に取り入れて、現役作家で一番使いこなしている作家と言えるから、この大きな特徴は見逃せない。
 視点や、視点人物、人称を変えることはつまり、作中の何者かの目を借りて見る視界のみならず、作中にある物事への認識の仕方までも変化させる行為だ。たくさんの一人称の〈わたし〉と三人称多元視点の頻繁な切り替えがこの小説を厄介な代物にしているのだが、その厄介さは小説の中のカメラの限界を、文字でできることを尽くして突破しようと試みていることに他ならない。
 一人称の主観的な認識と主観的だが狭い視界、三人称の客観的な認識と客観的だからできる広い視界が入り乱れることと、その相互作用によって今までの古い小説どもとは違った小説内の世界のありようを提示することに果敢に挑んでいることがわかる。
 そうして、ここまで視界や認識を揺さぶられると当然のことだが読み手はウォッカをまるまる一本がぶ飲みしたように酩酊してしまうのだが、この強い酔いを伴うわけのわからない読後感は奇妙に心地よい、少なくとも私はそう感じた。
 
コルバトントリ
 一人称の〈ぼく〉のまま、人称は動かさずに視点人物がおばさんになったり、金田や三浦といった少年になったり、父や母となったり、視点が自由自在に動き回る。また〈ぼく〉が直接体験していない過去に平然と飛んでしまったりするので、語りの時間が入り乱れて、ひどく錯綜する。
 徐々に〈ぼく〉とされていた男の子や、その他の多数の登場人物を見る視点が歪んでいくと言えばよいのだろうか、〈ぼく〉が〈ぼく〉でなくなっていくし、登場人物達もおのおのの存在のあり方が変わってしまう。整合性は破棄されていると言ってよい。
 一人称だから〈ぼく〉が知っていることだけ書かれているのかというと、〈ぼく〉はそのことを知らないことを知っている、という極めて難解な言い回しと歪んだ認識が書かれだす。
 ここにおいて、従来の小説のルールだとか、約束事はズタズタに破壊されている。しかしそれらはそもそも守る価値や義務があったかと疑ったことはあるだろうか? 私は最近とみに増えてきたこの手の小説を読むまで疑いもせず、むしろ無根拠に従来型の小説のルールや約束事を破らないよう、間抜けにも気をつけていたくらいなのだ。こんなものは無価値だし邪魔なだけだ、と本作を読めば気づく。本作においては〈移人称〉という用語ですらカバーできないスタイルが採用されている。従来型の小説の用語を使うと、多視点小説ということになるかと思われる。しかしことはそう簡単ではないし、今までにないスタイルが提示されているので、〈移人称〉なる用語がある一定の認知度を得ているならば、私はこの、一人称でありながら、そして〈ぼく〉の語りを固定したまま、視点人物が移り変わっていく本作に対し、〈移視点〉なる造語を提唱してみたい誘惑に駆られた。
 
 ここまでごちゃごちゃ書いてきて、この初期作品集を読んで考えたり思ったことのまとめを書くのがひどくしんどいのだが、山下澄人の革新的な魅力は、何も徹底的に破壊した時間軸、リニアに進むはずの時間の流れをぐちゃぐちゃにしたといった点や、わたしがわたしであることの不確かさといった存在のありようへの疑問といった問題を突きつける作風だけにあるのではない。
 人称や視点の大胆で型破りな移動、それに伴う破調、破格のスタイルを持つ前衛的な叙法を貪欲に取り入れ、かつまた新しく創り出してしまう作家群の、先陣を切っていることが何よりも刺激的で何よりも魅力的なのだ。そういった山下澄人の魅力は、この初期短編集だけでも十二分に味わえる。