2018 『私の恋人』 上田岳弘(新潮社) 感想

 
 
著者 : 上田岳弘
新潮社
発売日 : 2015-06-30
 2015年度三島由紀夫賞受賞作。あの又吉直樹の『火花』と決選投票の末、これを退けて受賞した。
 
 エピグラフには『宇宙戦争』(著H・G・ウェルズ)からの引用がなされているように、SF的発想力を動力源とし、独自の人類学というか人類史解釈を交えた持論まで持ち出す壮大なスケールの世界観を構築し、と同時に現代文学らしい叙法・技巧の工夫――本作は複数の〈私〉を登場させるスタイルが採用されている――が掛け合わされた大変エキセントリックな小説で、又吉直樹を負かしただけのことはあると思うし、三島賞受賞作らしい小説だったと思ったし、もっと率直に言うとぶっ飛んでいるけど凄い小説で傑作と言ってよいだろうなと思えた内容であった。
 私的な事だがSF文学はちょっと不案内で、『宇宙戦争』はさすがに名前くらいは知っているが小説の方を読んでいないし映画化されたものも観ていないような有様なので、誤読が多少あるかもしれないが気にせず感想を書いてみよう。
 
 本作では《三段階》という現象が重要な役割を持っている。
 
 一通り、設定を書く。
 ●主人公の〈私〉だが、この〈私〉は2010年代の現在、三回目の人生を送っている。
 (1)一回目の〈私〉は、およそ10万年前に生きていた原始人であるクロマニョン人で、ほぼ全知に近い予知能力というか神に等しい頭脳を持っており、人類の過去、現在、未来のほぼ全てを予知していて、その様子を洞窟内に独自の文字を発明して書き残している。
 (2)二回目の〈私〉は20世紀前半にドイツで生まれたユダヤ人で、名をハイリンヒ・ケプラーと言い、ナチスによって強制収容所で虐殺された。ハイリンヒだった〈私〉は、クロマニョン人だった頃の〈私〉の記憶や予知能力や並外れた頭脳など全てを継承している。
 (3)三回目の〈私〉は、現代の日本人で、名を井上由祐(読みはユウスケ)と言い、会社員として生活してる。井上由祐としての〈私〉もハイリンヒと同じように、10万年前のクロマニョン人だった〈私〉、ナチスに虐殺されたユダヤ人のハイリンヒだった〈私〉の記憶や予知能力や並外れた頭脳など全てを継承している。
 
 ●ほぼ全知に近い〈私〉が、10万年前の一回目の〈私〉だった時、退屈紛れに想像した――予知でも予測でもなく願望した――理想の〈私の恋人〉、これがトリックスターのごとき役目を負う。
 10万年前の〈私〉が想像した〈私の恋人〉は以下のような条件と段階を踏む女性だった。
 (1)〈純少女〉、恵まれた肉体、美貌、頭脳を持ち、豊かな環境で育った彼女は他の人間達=人類にしてやれることをひたむきに探し、順次、実行していく。
 (2)〈苛烈すぎる女〉、純少女時代にやっていた事は甘かったとし、富や権力といった力が世界の不均衡を均す、つまり他の人間=人類を救うことになると思い立って行動するがやはり満足いかない。
 (3)〈堕ちた女〉、それまでの人助けをやめて呪術や祈祷に明け暮れるスピリチュアルな集団に入り、それらの儀式のために服用した幻覚剤で薬物中毒者となり男達に次々と輪姦され、相手にした数はゆうに百人を超し、倒錯的な快楽に溺れるも、やがてそのことにも疑問を持つ。
 〈私の恋人〉は三段階のそれぞれの転換点で「そうかしら?」と疑問を呈してまた別の道を探す。加えて『「今」でも「ここ」でもない場所、そこから私の身を案じている、優しい私の恋人』(p.20)と記される。あくまで予知ではなく〈想像〉した女性だということが本作を読み解く最重要なキーとなる。ほぼ全ての出来事を予測できる〈私〉にとって、唯一〈私の恋人〉の言動は予測が難しいと作中冒頭に書かれている。そもそも〈私の恋人〉は想像の産物であって、予知・予測したものではないので、いつ現れるかどうかも〈私〉には唯一わからないのだ。
 本作を一文で要約せよと言われれば「予知できない存在だが優しく、そして人類を救うであろう〈私の恋人〉に出会うために時代を超えた三人の〈私〉の旅」となるのだが、このことは最後のまとめで改めて述べたい。
 
 ●あともう一つ重要な《三段階》として〈行き止まりの人類の旅〉というサブプロットめいたものがある。これは秀才の家系に生まれた高橋陽平という元医者が独自に考え出したものだが、もちろんそれくらいはほぼ全知の〈私〉が既に予知している。その〈行き止まりの人類の旅〉は、冒頭に述べた人類学、あるいは人類史の独特な解釈による上田岳弘の持論を採用したようだ。内容は以下の通り。
 (1)一周目の〈行き止まりの人類の旅〉は、人類が生息地域を拡大し、地球上に遍く拡がった時を持って終わりとする。その過程においてネアンデルタール人クロマニョン人に殺戮、駆逐されて滅ぼされたといった事が起きた。この一周目は、10万年前の《一回目の〈私〉》の時代と合致する。
 (2)二周目の〈行き止まりの人類の旅〉は、地上全てを生息地域として収めた人類同士の争い、世界を最高効率で運用するルールを決める事とされる。ルールとはすなわちイデオロギーの類だ。大航海時代を迎えて発生する他民族を抑圧して支配する植民地政策、つまり支配側の民族、支配側の国家のイデオロギー=ルールを押し付けることが全世界で行われていく。ルールに従わせるために異なるルールを持つ部族、人種、国家は滅ぼされるか服従させられた。
 数々の戦争、帝国主義の勃興と二度の世界大戦における覇権争いの果てに最終的な勝利者イデオロギー=ルールが決定し、全世界を覆う。これは民主主義と資本主義というイデオロギー=ルールを持つアメリカが、その成果であるかのように、人類全てを滅亡させることも将来的に可能となる技術によって開発された原爆=核兵器を二発投下したことをもって終了したとされる。
 この二周目は、つまり第二次世界大戦時、枢軸国側と連合国側の覇権争いの戦争が起こった頃がハイライトとなるわけだが、これはナチスによって、絶滅させられようとしたユダヤ人という人種に生まれつき、実際、強制収容所に連行され、虐殺された《ハイリンヒという二回目の〈私〉》の時代と合致する。
 (3)三周目の〈行き止まりの人類の旅〉は、1995年のWindows95の発売をその出発点とする。この三周目の旅は2010年代の現在も進行中のもので、要はIT関連といったコンピューターの飛躍的な進歩を指し、やがて作中で〈彼ら〉と呼称される、恐らくはAIの事だろうが、人類の知能を超えたAIが、人類を征服して終えるだろうというもの。
 この三周目は、現代の日本人である《井上由祐という三回目の〈私〉》の時代と合致する。
 
 〈行き止まりの人類の旅〉の終わりの直前、節目節目に〈私〉が生まれているのは偶然ではない。三周ある〈行き止まりの人類の旅〉の終わりはいつでもバッドエンディングだ。血生臭いジェノサイドをもって行き止まりに達してしまうのだから。そうして、そんな時に〈私〉は三回も生まれ落ち、理想の〈私の恋人〉を想って止まない。
 
 だいぶ言及するのが後ろ倒しになったが、現代の日本人として生まれた《井上由祐という三回目の〈私〉》は、オーストラリア人のキャロライン・ホプキンスという美女と日本で出会い、交際しようとしている。というのも、キャロライン・ホプキンスは理想の〈私の恋人〉の条件を全てクリアした人生を歩んできており、三回も生まれ変わっては理想の〈私の恋人〉を追い求めた〈私〉にとって最初で最後のチャンスだからだ。
 おまけにキャロライン・ホプキンスは高橋陽平と〈堕ちた女〉から脱出する頃に知り合い、〈行き止まりの人類の旅〉の一周目、二週目を象徴するような場所をあたかも聖地巡礼するかのように経巡る旅に同行しており、はっきりとは書かれないが恐らく三周目の〈行き止まりの人類の旅〉の終末を予測している。これ以上ない理想の〈私の恋人〉候補なのだ。 
 
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 まとめに入る前に、冒頭で触れた叙法・技巧の工夫というのは、この三回の人生を送った〈私〉をめぐる有り様のことだ。
 本作は形式だけ見れば一人称の〈私〉の一人語りということになるのだが、読んでいる時の感覚としては三人称に限りなく近い。それもそのはず、語り手たる〈私〉は一回目の人生の時から全世界、全時間をほぼ見通せる超越者(神に近い存在)だ。神に近いとはすなわち、書き手たる作者のごとき存在であることを意味するが、しかしながらその作者的存在の語り手をあくまで作中の一登場人物たる〈私〉にあえて押し込めた。
 このことにより(ほぼ)全知の存在=神=作者の図式に意識的な書き手がよくやるメタフィクションの手法を自ら封じているし、そしてまた読み手側へもこの手の小説にありがちなメタフィクションとして読解することを巧妙に封じている。今までの文学理論を用いたテクスト分析は恐らく通用しない。よってうまく言い表せないが、新しいタイプの語り手の創出を目指したのではないか、と私は推測する。そうとしか言いようがない。
 作中に出てくる〈私〉とは、三回ある人生を総合して貫く一人の〈私〉であり、且つその時代の時間軸の叙述における行動主の〈私〉でもあって、一人の〈私〉でありながら三人分の〈私〉でもあるという、ひどく複雑な現象が起きている。
 《一回目の〈私〉》、《ハイリンヒという二回目の〈私〉》、《井上由祐という三回目の〈私〉》の三人分の〈私〉が〈私〉を外側から語っていて、三人称だか一人称だか断言できないのだ。この書き方は非常に刺激的であり、前衛的であった。
 単に壮大なスケールの世界観を持った、というだけならただのSF小説になる。そうではない事は、のちの芥川賞受賞作となる又吉直樹の『火花』を始めとする2015年度の三島賞の他の候補作、すなわち岡田利規の『現在地』、高橋弘希の『指の骨』(新潮新人賞受賞)、滝口悠生『愛と人生』(野間文芸新人賞受賞)らを退けたことが証明している。打ち勝った理由の一つにはこの刺激的で前衛的な叙法・技巧も当然、加味されただろう事は言うまでもない。
 
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 さて、ほぼ全知と注意して書いてきたのは、繰り返しになるが、予測できない唯一の例があるからだ。それは〈私の恋人〉の言動である。
 何でも予知し、予測し、知り得る〈私〉にとっては過去、現在、未来のほとんどはつまらない、何故なら結果がわかってしまうからだ。未来からタイムスリップした人間が結果を知っているギャンブルをやって勝っても楽しくはないのと同じことだ。
 しかし〈私の恋人〉だけは違う。〈私〉が願望し夢想した理想の〈私の恋人〉は〈純少女〉、〈苛烈すぎる女〉、〈堕ちた女〉の《三段階》のステップを踏むという条件があった。それをクリアした初めての女性であるキャロライン・ホプキンスは、最後の〈堕ちた女〉の時にでも「そうかしら?」と疑問を呈して、初の《四段階》目に達した女となるわけだが、10万年前から想い続けた〈私〉はその《四段階》目の女を予測できていない。そして〈行き止まりの人類の旅〉の三周目にある現在においても、〈私〉はその先を予測できていないのだ。三周目の次のフェーズに移行できるのは「そうかしら?」と疑問を呈して、今や《四段階》目の女になったキャロライン・ホプキンスだけだろう。
 全知に近い存在の〈私〉の予測も限界を迎えるが、その先まで行けるただ一人の女であるキャロライン・ホプキンスは終盤においては、まるで人類が希求する救世主メシアのように、全世界を包み込むような慈愛を持つ聖母マリアのように書かれていく。
 だからだろう、エピローグめいた部分での〈私〉が〈私の恋人〉に必死に語りかける様子は切実極まりないのだ。三周ともバッドエンディングを迎える〈行き止まりの人類の旅〉、しかしその次の四周目まで挑める《四段階》目の女となった〈私の恋人〉はこの時にあっては、〈私〉にとって、人類にとって、眩しい光として尊く、強く、美しく、そして愛おしい存在として描き出されているのだ。