2019 『死んでいない者』 滝口悠生 (文藝春秋) 感想

 2015年度下半期芥川賞受賞作。
 滝口悠生は大雑把に言えば2010年代に擡頭してきた〈語り〉の技巧に意識的な作家群の一人として括ることができる存在であって、本作もまた、実験的とも言える叙法を採用している。
 
 本作のあらすじは書いてしまうと物語性が希薄なので実に呆気ない。大往生を遂げた故人の通夜に集まったおよそ30人の親類縁者の朧気な記憶のとりとめのない回想を綴ったもの、という一文で済ませられるものであり、それ以上でもそれ以下でもない。
 しかしながら書き方が異常なのだ。
 通夜に集まった全ての人物に焦点を当てたわけではないが、視点は多数の人物へと縦横無尽に移り変わる。その視点人物のあまりの多さに、読み始めのまだこちらに整理のついていない段階ではひどく散漫な調子に映るが、読み進めていけば、まあ、意図的に混乱を企図した部分も散見されるのではっきりとはしないだろうが本作の読み方、楽しみ方は掴めてくる。
 滝口悠生にしては珍しく、移人称はたぶん使われていない。だが、錯綜とした書き方は健在で、現に本作は一般に扱いが難しいとされる三人称多元視点のスタイルが用いられている。三人称多元視点はデビュー作の『楽器』の頃から見られる滝口の特徴である。本作では数えたわけではないので正確な数字は言えないが、少なくとも10人以上に視点が動く、焦点化が行われている。加えて、滝口は会話文に括弧を使わないので地の文に視点人物の台詞や独白が入り交じる。そうすると超然的な語り手(作者と思しき語り手)の語りと一人称的な台詞と独白が、何らかの区別のサインなく混交するので、人称の唐突な変化である移人称とは言い難いが、それとは別種の、あるいは新たな書き方のようなものが見受けられる。これはこれで凄いことだ。〈語り〉の境界が非常にあやふやになっていて大変スリリングに読めるのだから。
  
 もうひとつ、滝口がデビュー作からこだわっている大事な事柄、主題とも言えるものとして人間の《記憶》の曖昧さ、不明瞭さ、不完全さが本作でも取り上げられている。
 無関係ではないが、さりとてお互い懇ろでもない多数の親類縁者たちが集まると、よい意味でいい加減な会話からふと記憶が回想される。通夜という親類縁者が一堂に会する場所と時間だからこそ、ああそう言えばあの人とあの人はこうこうこういう人で誰それの息子で父で母で、といった関係性の雑な確認から(実際、本作中では誰が誰だかもうわからない、と言わせる場面もあるくらい雑である)連想ゲームのようにふと記憶が思い起こされていく。
 通夜など葬儀をハレとするのか、はたまたケガレとするのかは戦後の民俗学において決着のついていない問題だが、非日常の空間と時間であることは間違いなく、この時だからこそ、多数の親類縁者たちが回想に花を咲かせているのであって、きっとケ、つまり日常に戻ったら思い出さないだろうし、そもそも通夜のこの日のことすら忘れるだろう。特別な場と時間だから起こる回想なのだ。
 その回想が本作の大部分を占めるのだが、その中身は故人そっちのけの個人的なものが多い。後藤明生ほどではないが、回想は故人から離れていく。中心は故人のはずなのに、どんどん脱線していくのである。よくありがちな、皇居周辺的な在り方というか、中心をあえて言わずに周辺を詳細に語って芯を浮き彫りにするといった手法ではない。
 例えば、とある孫の不登校問題や酒と博奕に溺れて蒸発した厄介な孫の話がかなりの紙数を割かれているのだが、それぞれの問題行動の原因は明かされないし、明かされる気配すらなく放り出されている。その回想の細部も含めて所々が曖昧な、不明瞭な《記憶》の回想シーンは何もこの二例に留まらないのだから恐れ入る。
 
 じゃあいったいこの小説はどうなっているのかというと、一本の大木のようになっていると私は思ったのだ。
 故人を媒体に、いや故人を丈夫な太い根とした大木があって、数々の枝が伸び、枝一本一本が親類縁者たちであるとして、枝の先では一つ一つ、さして重要ではないかもしれないが確かに送ってきたそれぞれの生活、個人史という名の花が咲き乱れている、そうしてそれらの花々はどうなっているかというと勝手気ままに咲いているというイメージ。多数の回想は故人をきっかけにしてはいるが、どんどん故人から離れていきながらも魅力ある複数のエピソードとして、本作全体を構成している。
 そしてそれらは作中の語り手や視点人物が何度も繰り返し言うように、どうしてそうなったか、原因や理由や細部が不明確で《わからない》。語り手が《わからない》と直截に言うのだ、読み手がわかるはずがない、けれども各エピソードはそれぞれじゅうぶん面白いものであるのだし、《わかる・わからない》はもはや問題ではないのではないか。
 記憶に対する曖昧さ、いい加減さ、肝心なところがわからなかったりするのは実に人間らしい。何がと言って、人間は機械ではないから何もかもを正確に覚えていられるわけがないという点だ。だから《わからない》と作中で幾度となく言ってしまう語り手の態度は投げやりでも無責任でもなく、逆に生真面目とさえ言える。 
 機械ではなく、また小説の都合により無理やり全知の存在にされたり、あるいは不自然なほどとある記憶を鮮明に覚えているような、人間離れした登場人物は語り手も含めて一人もいないのだ。
 「この小説は人間が描けている」とか「描けていない」といった紋切りの批評用語があるが、本作『死んでいない者』はどうかというと、愚直なほどにリアルで虚飾のない、生きている人間(=「死んでいない者」)が見事に描けている小説なのである。