2019 『蛇にピアス』 金原ひとみ (集英社文庫) 再読後の感想

蛇にピアス (集英社文庫)

蛇にピアス (集英社文庫)

 

 戦後の文学の新陳代謝の仕方は石原慎太郎芥川賞受賞が決定づけた。既存の価値観というスラム街が形成され、そこに住まう文学者達は保身の色を強め、縮こまり閉塞感が充満する、何故なら彼らは身を寄せ合って暖を取っているからだ。そこへ破壊者が襲来する。破壊者は美・善・義・徳といったような旧来素晴らしいとされた物の正反対からオーバースピードで閉塞したスラム街を破壊しながら駆け抜ける。破壊者の過ぎ去った後には、一本の道ができ、スラム街の壁にも一つの入口がこじ開けられる。その一本の道とその先の入口にみなが殺到するが、入口の向こうは未知で未開の地だ。また同じように自身の住まいを建て生活しようとする。そうやって再びスラム街が形成され酸素濃度が薄くなり閉塞感極まる頃、また破壊者がやって来る。どうも10年という間隔で破壊者はやって来ていそうだ。しかし破壊者は破壊するだけで新しい価値観は創造しない。それは自己存在に対し矛盾と否定を伴うからだ。

 金原ひとみの『蛇にピアス』もそのような作品になるだろう。この作品は何かを破壊していったはずだ。さて、では破壊者たる『蛇にピアス』という作品に意思があるとしたらどんな物だろうか。破壊者なので破壊衝動はある。と同時に破滅願望もありそうに思える。破滅願望とは即ち自己への破壊衝動だ。この作品の登場は少なからず新陳代謝の役目を果たしたとは思うが、破壊の方向はどうも内向きに思える。

 

 奔放な性行動と暴力、それだけでは評価されない時代にとっくに移っている。セックスアンドバイオレンスという表層的な派手さに何を託したのか、何を表現したかったのかと考える。

 身体改造欲求、それが一般にこの作品を語るキーだが間違ってはいないが最重要ではない。米国のビートニク世代や村上龍中上健次は薬物濫用で精神改造をしようとしたわけだがそれとさして変わりはない。また刺青や彫物師とサドマゾといった所から谷崎潤一郎の最初期がどうしても想起してしまうがそれも違う。別に主人公ルイは美に耽りたいわけではない。

 セックスとバイオレンスは究極のコミュニケイトだ。言葉と態度の応酬で成り立つ関係性には常に嘘と欺瞞が内包される。それを巧く描くと今流行りの軽妙なフットワークの純文学ができる。

 話がずれるが第130回芥川賞は非常にハイレベルでもう一方は綿矢りさ絲山秋子の候補作は芸術選奨文科大臣新人賞を受賞し、中村航の候補作は野間文芸新人賞を受賞している。両者共、人間関係の機微を軽妙に描く作風なわけでそういった勢力との対決でもあったのである。『蛇にピアス』はその手の作品ではない。軽妙とは無縁の、質量の重さを感じる。その重さとセックスアンドバイオレンスは蜜月だ。

 自我の確立ならぬ自我の崩壊、と言って大袈裟なら自我の徹底的な不安定さ、それがこの小説の最大テーマだ。セックスとバイオレンスは究極のコミュニケイトだと言った。主人公ルイの心は常に不安定で病的でさえある。そのギリギリの心持ちを支えているのは他者依存だ。そして他者に求めるのは言葉ではなく嘘偽りが介入出来ない暴力と性交になる。

 共依存の関係にあったマサが死に、恐らくシバがマサを殺したのだがそれでもルイがシバを糾弾もしなければ離れる事もないのは不安定な自我の支えになってしまっている他者を失う事になるからだ。ルイにとって自身の命すらどうでもいいのでボロボロになっていくがそれでも寄りかかれる樹を求めている。言葉よりももっと純度の高い接触を求めた末に産まれたのがこの作品、であると思う。

 兎にも角にも金原ひとみを語る時に欠かせなくなるのは「他者依存」という言葉なのかもしれない。あくまでデュー作を再読して得た感覚ではあるのだが。

 

2019 『芋粥』における〈五位〉の真に望んだ〈生〉の形について――芥川独創の挿話から読む

羅生門・鼻 (新潮文庫)

羅生門・鼻 (新潮文庫)

 

  ※この論考は上にリンクを貼った『羅生門・鼻』(新潮文庫)所収の『芋粥』のみを論じたものである。

一、書誌

・初出『新小説』第二一年第九号、大正五年(一九一六・九・一発行)

・所収『羅生門』(阿蘭陀書房、一九一七・五)、『鼻』(春陽堂、一九一八・七)、『芋粥』(春陽堂、一九二二・二)

・典拠 『今昔物語集』「巻第十六 利仁将軍若時従京敦賀将行五位語第十七」(トシヒトノショウグンワカキトキキョウヨリツルガニゴイヲイテユキタルコト)

及び『宇治拾遺物語』「巻第一 一八 利仁 暑預粥の事」

 他、ゴーゴリの『外套』の影響が指摘されており、久米正雄の証言(『菊池久米を囲む文学論』「文学界」昭和一一年、一九三六・九)にゴーゴリの「マントル」を置いて書いていたとある。

二、成立背景

六月二十九日 井川恭宛

(略)

僕の胃病は快癒した これは完く規則的に飮食し出したおかげである その習慣は松江にゐる時からついた とにかく胃が痛まないから この頃は元氣がいい

その元氣のいい勢で 新小説へ小説をかくのを引うけてしまつた 今では少し後悔してゐる だから當分東京ははなれられない いやでも約束の期日までにかいてしまはなければならないから 不安と勇氣とを代わる〳〵感じてゐるがどつちかと云ふ不安の方が多い 九月の特別号に出る筈だ

 

七月二五日 井川恭宛

(略)

僕は来月の新小説へ芋粥と云ふ小説を書く 世評の惡いのは今から期待してゐる 偸盗と云ふ長篇をかきかけたが間にあひさうもないのでやめた 書きたい事が澤山ある 材料に窮すると云ふ事はうそだと思ふ どんどん書かなければ材料だつて出てきはしない 持つてゐる中に発酵機を通り越すと腐つてしまふ 又書いて材料に窮するやうな作家なら創作をしてもしかたがない

 

八月一日 藤岡蔵六宛

新小説のやつを今日からかき出した題は「芋粥」と云ふのにするつもりだその中に君の所へゆかう體がよくなつたら來てもいいまだ今日の外に小説を二つばかりかかうと思つてゐるこの頃は元氣だ

芋粥』は漱石門下の鈴木三重吉の斡旋により大手文芸雑誌「新小説」から原稿依頼があったために執筆した。執筆依頼に関して、「新思潮」掲載の『鼻』が夏目漱石に激賞されたため、その影響下において依頼がなされたとみる向きが通説である。「新小説」は、新進作家の登竜門たる性格を持つ。この文芸誌に掲載された『芋粥』をもってして芥川龍之介の実質的な文壇登場作と言われる。

 初め、長篇の『偸盗』で執筆依頼に応えるはずが、『芋粥』へ変更された。「新小説」八月号の広告には、七篇の小説題名の中に「偸盗 芥川龍之介」の文字がある。この当時書きかけた『偸盗』の性格は不明。こうした経緯はあるものの、「新小説」の執筆依頼には意欲をもって取り組んでいる様が見受けられる。こういった姿勢がややもすれば気負いありと窺えるのは、本テクストの冒頭において自然主義派を揶揄するところである。

 

八月九日 松岡譲宛

(略)

僕は芋粥を書いてゐる 今までの所は大過なく来てゐるやうな氣がするがよみ直さないから覺束ない 十二枚でやつと「一」がすんだ 「鼻」位にはゆくかと思つてゐる

 

八月九日(年月推定) 秦豊吉

(略)

目下門を閉ぢて客を避く蓋原稿の〆切日に違ふを恐るれば也爲に故人を叩いて婉約たる情話を聞くに暇あらず卽この尺素を成せり故人幸に魚雁相酬ゆる事あらば幸甚也

十五日以後に於て拝眉の期あらむ乎

芋粥』に章分けはなく、「一」がどこまでかは定かでない。ただ、執筆者芥川本人が『芋粥』を構成上、いくつかに分けられると考えている向きが推測できる材料となる。また、「新小説」九月号の〆切は十五日。

三、同時代評

九月の雑誌を読みて(四) 十束浪人 東京日日新聞 大正五年九月五日

新小説「芋粥」(芥 龍之介氏)※ 平安朝時代といふ一種の優長な時代を背景として人に侮辱されるための外何等の意味もなく此の世に生まれて来て摂政藤原基経に仕ふる某といふ五位の男が芋粥に異常な執着を有つて居る事を軽妙に描いて、その時代の特殊な空氣を味はしめてゐる。                       ※引用者注 原文ママ

 

今月読んだ戯曲、小説(三) 小宮豊隆『時事新報』大正五年九月一九日

芥川龍之助君の「芋粥」は、同君の日ごろの手腕に似合はず、かなり出來が惡い。是に比べると、同じ月の「新思潮」に載つてゐる「猿」は、段違ひに巧い、ねらひ處にも味がある。興奮が見當違ひの方角に活らひたせゐであらうか、元來が短くかくべきものを長さの約束を義理堅く履行する爲に無理に書き伸たせゐであらうか、夫とも題材を抱いて暖めて孵化させる時日が短すぎたせゐであらうか。

第一、茲處には、材料の配列し方と描き消化し方とに多少の混雑と可成の無駄とがある。從つて、全體の印象が濁つて鈍つて、何日ものやうな鮮かな冴えざえした感じがない、第二に、此作者の今迄の表現の文章は、確かで手堅くて壓搾されてゐて充分磨きが掛かつてゐるのに、茲處の表現の文章は、何日ほど磨き切つてもなければ壓搾されてもゐない、中味が希薄で弛んで(惡く誇張すれば)上ずつて然してStabilityを失して仕舞つてゐる箇處が方々で發見される。さうして第三に、最後に茲處では、作者が作中の主人公から餘りに離れ過ぎてゐるために、換言すれば、作者が餘りにSuperiorの立場から作中の主人公を見下ろしてゐるために、全體が、笑ひの影に涙を蔵するフモールの色で彩られずに、妙に趣の少い滑稽になつてゐる。

此作者は随分聰明な頭を持つてゐる。聰明な頭の所有者が、自分のことは棚に上げて、他人のこと許りに係づらはつてゐるとき、其人は往々にしてバーナード ショオとなる。私は此作者がショオとなることは思はない。然も私には、此作者が、其聰明な頭の故に、今かなり危い位置に立たされてゐる、と云ふ氣がしないでもない。夫は此作者の人生に對する態度に、何處か納まつてゐると云ふやうな態度(特に『芋粥』に於いて是が随分目に立つ)がチラチラするからである。

 納まつてゐると云ふとは、「穿貫」に對する「自省」に對する、摯實な要求と熱心な努力との缺乏を意味する。夫は又「人」のethischに生長する營みが停滞してゐると云ふと意味する。かかる缺乏とかかる停滞とは、勿論一切の藝術の内容的価値を軽くする。――私は此作者のやうな聰明の頭の所有者に、今から納まつてゐると云ふような態度を、態度の影法師さへも、持つて貰らひたくないと思ふ。是丈の頭があれば、向け方一つでは、歴史小説をかくにしても、鴎外さんが触れるとも出來なかった(触れて見やうともしなかつたやうでもあるが)やうな大きな問題にも、触れることが出來さうな氣がする。

 小宮の同時代評のうち、カタカナ及びアルファベット表記は以下の意味か。Stability(安定)、Superior(上から、傲慢な)、フモール(ドイツ語、ユーモア)、バーナード・ショーアイルランド出身の一九世紀イギリスの劇作家、社会主義者)、ethisch(ドイツ語、倫理的、道徳的)。小説そのものの長さの不適切さ、作中の作者の位置等々、色々注文を出していて一見否定の評に見えるが、末まで読めば、辛口の激励と捉えられるだろう。

 

九月の主な創作 加能作次郎『太陽』大正五年一〇月一日

他は「新小説」に短篇『芋粥』を出した芥川龍之助氏である。尤も芥川氏は、以前から「新思潮」誌上などで數篇の作を公にして居るのるであるが、一層世間的に知られたのは、此作によつてである。『芋粥』は「今昔物語」か「古今著聞集」にでもあるやうな話を現代的に取扱つたもので、平安朝の昔、摂政藤原基経に仕へる侍で、某の五位といひ、芋粥といふものに異常な執着をもち、それに飽かむことを以て畢生の希望として居るやうな愚直なお人よしの、常に人の侮蔑嘲弄の的となつてゐる意氣地のない男が或る時同僚の一人の翻弄とも知らずに、芋粥の御馳走になる爲に遥々越前の敦賀まで引張られて行き、仇情けにいやといふほど強ひられ、すつかり幻滅の悲哀を味はされる経過を心理的に描いたもので、長ひ間憧れて居た空想的慾望が満足された後、矢張芋粥に飽きたいといふ慾望を、唯一人大事に守つて居た時分の身が幸福であつたと感じ、多くの侍に愚弄され、京童にさへ罵られ、色のさめた水干に指貫をつけて飼主のない尨犬のやうに朱雀大路をうろついて歩く憐むべき孤独の彼自身をなつかしむだといふ結末の一節が此作の主眼で、作者がこの舊い物語に共鳴を感じ、此の作の中に生かさうとした思想は、要するにデイスイリュウジョンの悲哀で、思想としては決して新しいものではなく、また此作には、それが決して深く強く出て居ないが此の憐れむべき愚直な五位に深い同情を寄せ、この滑稽なる人物事件を極めて眞面目に厳粛に取扱つてあるので、読者は笑ふどころでなく、何となく痛ましい一種のペーソスを感ぜしめられる。そこに此作の價値があると思ふ。但、その書き方に氣取つた一種の臭味のあるのが氣障な感じを與へる。

 適切な梗概と共に、早くも〈幻滅〉の二字がテーマとして読まれている。

 

十月文壇(二) 秦豊吉『時事新報』大正五年一〇月八日

『手巾』(芥川龍之介氏)は私等の尊崇する長谷川先生(假名)を私等の親しい芥川君が書いたものだ。何から何まで嬉しい。私にはこの作者の得意とする『芋粥』よりずつと興味がある。

 

十月の創作(上) 赤木桁平 『読売新聞』 大正五年一〇月一〇日

「手巾」――芥川龍之助(中央公論

先月の新小説に載つた「芋粥」などよるずつといい。或は、この作者の逸品の一たる「酒蟲」などよりも、その作品の渾然として何等の破綻をも見せない點に於いては、寧ろ勝れたところが多いかも知れない。

 新渡戸稲造がモデルの『手巾』(ハンケチ)は、『中央公論』に掲載された、芥川の現代を舞台にした小説。現代小説『手巾』と歴史小説を比較する際、まず『芋粥』の名が挙がっていることから、歴史小説では『芋粥』、といった認知度があったか。ともあれ、おおむね好評であったという点は見受けられよう。

 

夏目漱石、大正五年) 九月二日(土)芥川龍之介 消印午後10-12時

      千葉家一ノ宮一ノ宮館 芥川龍之介

      九月二日 東京牛込早稲田南町七 夏目金之助

 

 啓只今「芋粥」を読みました君が心配してゐる事を知つてゐる故一寸感想を書いてあげます。あれは何時もより骨を折り過ぎました。細叙絮説に過ぎました。然し其所に君の偉い所も現はれてゐます。だから細叙が悪いのではない。細叙するに適当な所を捕へてゐない点丈がくだ〳〵しくなるのです。too labouredといふ弊に陥るのですな。うんと気張り過ぎるからあゝなるのです。物語り(西洋のものでも)シムプルなナイーヴな点に面白味が伴ひます。惜い事に君はそこを塗り潰してベタ塗りに蒔絵を施しました。是は悪い結果になります。然し。芋粥の命令が下つたあとは非常に出来がよろしい。立派なものです。然して御手際からいふと首尾一貫してゐるのだから文句をつければ前半の内容があれ丈の労力に価しないといふ事に帰着しなければなりません。新思潮へ書く積りでやつたら全体の出来栄もつと見事になつたらうと思ひます。

 然し是は悪くいふ側からです。技巧は前後を通じて立派なものです誰に対したつて恥しい事はありません。段々晴の場所へ書きなれると硬くなる気分が薄らいで余所行はなくなります。さうしてどんな時にも日常茶飯事でさつさと片付けて行かれます。その時始めて君の真面目は躍然として思ふ存分紙上に出て来ます。何でも生涯の修行でせうけれどもことに場なれないといふ事は損です。

 此批評は君の参考の為です。僕自身を標準にする訳ではありません。自分の事は棚へ上げて君のために(未来の)一言するのです。ただ芋粥を(前後を裁断して)批評するならもつと賞めます。

 今日カマスの干物が二人の名前できました。御好意を謝します。なにか欲しいものがあるなら送つて上げます。遠慮なく云つて御寄こしなさい。 頓首

 

   九月二日夜  夏目金之助

  Too labouredは、laborの英国英語。意味は苦心しすぎた、ぎこちない、か。後述する吉田精一の通説に連なる、『芋粥』論のまず第一歩のものとなった漱石の芥川宛書簡である。吉田精一漱石のこの評を次のように評した。

 

吉田精一「『芥川龍之介三省堂(昭和十七年十二月)」日本図書センター、一九九三年一月 

これも突くべき所は突いた、それでゐて十分に芋粥の價値を認識した懇切で愛情にみちた批評であつた。さうしてこの批評は龍之介を喜ばせたであらうが、それより先、彼も亦新小説を披見して、不安の念をやや解消したらしい。

 漱石の言う「細叙絮説」になっている部分、「ベタ塗りの蒔絵」になっている部分が判然としない。「前半の内容があれ丈の労力に価しない」、「芋粥の命令が下つたあとは非常に出来がよろしい」とあることから、饗宴の場面、利仁に芋粥の欲望を聞かれたあたりか。章分けのない『芋粥』において、前半がどこを指すのか(真ん中で二つに折った所以前というわけでは勿論違う)が不明確である。

 ベタ塗りの蒔絵を、敦賀への道中の風景描写ととり、また芋粥の命令を、白髪の郎党頭の命令だとすれば、『芋粥』の最後の敦賀の邸以前が細叙絮説と指摘しているのかもしれぬ。見解は論者によって意見の別れる所だが、冒頭部の〈五位〉の人物造形および環境の描写は無駄であると言っている事、後半とくに最後の場面はよろしいと言っている事は確認できる。

四、先行研究

 ここでは代表的な二つの通説になった作品論を挙げる。本格的な読解は本稿「項目六、読解」に譲るが、ここで『芋粥』のテクストが四つに分割できることを指摘しておきたい。

まず(一)は〈五位〉の人物描写および環境の説明。(二)は饗宴における〈利仁〉との場面。(三)は敦賀への道中。(四)は敦賀の館に着いてから幕が閉じるまで。

 

吉田精一「『芥川龍之介三省堂(昭和十七年十二月)」一九九三・一 日本図書センター(下線部筆者)

題材のとり方も、生かし方も、又彼自身の人生哲學の附與の仕方も、「鼻」の場合と大差がない。/原作の筋はほとんど「芋粥」と同じである。ただ例によつて珍奇で滑稽なもとの話を一方では忠實に辿りながら、その裏に人生に於ける理想なり欲望なりは、達せられない内に價値があるので、それが達せられた時には、理想が理想でなくなつてしまひ、却つて幻滅を感じるばかりだといふ、人生批評を寓したのである。だから原作でかなり狐の怪奇が重く見られてゐるのに、龍之介は五位の性格や環境の描寫を錆しくして、一個の好人物を、それも世間の迫害にべそを掻きつづけてゐる哀れな人間を浮き彫りにしようとした。

 もっとも広く行き渡った『芋粥』論の通説、幻滅テーマ説である。漱石の芥川宛書簡から吉田に至るこの批評は、さきにあげた分割のうち、後半のうちの最後、(四)の場面に重点を置き、それ以前を切って捨てる印象がある。

 

和田繁二郎『芥川龍之介(日本文学新書)』「芋粥」、創元社、一九五六年三月(浅野洋編『芥川龍之介作品論集成 第1巻羅生門―今昔物語の世界』翰林書房、二〇〇〇年三月、所収)

五位の幻滅は、利仁の悪意によってもたらされたものとしなければならない。非人間的なものによって、五位の欲望充足の夢はやぶられてしまったのである。そこに、この五位の悲劇がある。ただ単に欲望は満たされようとするとき幻滅をきたすというような一般的な必然は、どこにも語られていない。あくまで利仁の非情にもとづく、財力をかけた嘲弄・侮蔑のなかにおいてあらわれたものである。したがって、問題は、そのような幻滅をおこさせた、非情な人間性いついて注意が換気されねばならないのだ。(略)/(無位の侍の本文引用のあと)/「彼らの知らない誰かが――多数の誰かが」とは誰をさすのであろうか。それはやはり、彼ら貴族たる支配層に抑圧されている多くの民衆の生態を考えることができるだろう。(略)彼ら貴族たちは、一見して、気品と教養を身につけていたかもしれないが、そのような人間の内部に、いかに兇悪な野生が潜んでいるかを、我々は見出だせねばならない。芥川は、この間の人間性の秘密を、いみじくも喝破したのである。/芥川は、この作品によって、貴族たちの中にひそむ人間の兇悪をえぐり出して見せた。また、それにいためつけられている民衆の象徴としての五位を描いた。

 と、まず和田が(一)の部分、即ち〈五位〉の人物描写と環境の描写のうち、ある〈無位の侍〉に目を向けた。『芋粥』論の画期的な事である。だが、〈五位〉は仮にも昇殿を許される身分の貴族である。〈五位〉の言葉に貴族に抑圧された民衆を見るのはやや同意しかねる。

 

重松泰雄『国文学』「芋粥 芥川文学の作品構造」、一九七〇年一一月(浅野編、同前書所収)

(「いけぬのう、お身たちは」という場面の本文引用のあと)/ここにわたしは、この作品の――もっと正しく言えば、この作品着手時の――最大の眼目があると考える。作者は何よりも、この弱々しい、しかしそれでいて無情な「彼等」の肺腑をつく五位の言葉が語りたくて、作品を書き始めたに違いない。むろんこの言葉は(略)ゴーゴリの「外套」の主人公が発する「かまわないで下さい! 何だってそんなに人を馬鹿にするんです?」と無関係ではない。/(略)何かもっと深い、もっと大きな問題を訴えようとしているのである。それは人間全体のやり切れないあわれさ、存在そのものの「いぢらしさ」、あるいはむしろ、そのような亀裂を持つ人間への深い共鳴と愛着とでも言えようか。/(略)わたしは先の「芋粥」の一節に――総じて〈第一部〉の五位の造形そのものの中に――この作品当初の主要なモティーフがあったことを信じざるをえない。

 続いて重松が、やはり(一)の部分、〈無位の侍〉の目に写った〈五位〉とその言葉に引き続き注目し、眼目をそこであると規定した。ゴーゴリの『外套』の影響を非常に言及したものでもある。

 

 

三好行雄芥川龍之介論』「負け犬――芋粥の構造――」筑摩書房、一九七六年九月(浅野編、同前書所収)

(無位の侍の内心描写の本文引用のあと)/小説の主題をいちはやく提示した一節である。勝ち犬が存在するから、負け犬が存在する、あるいはその逆。(略)/利仁と五位の関係は、その〈下等さ〉の具体化にほかならぬ。利仁にとって、五位に芋粥を馳走することは、まことにたやすい、たとえば指を上げてみせるだけの偶然であって、かれの〈生〉を素通りしてゆく、ささいな事件だったはずである。おおがかりな芋粥作りにしても、勢威を誇示する勝ち犬の倨傲をそこに見ておけば足りる。/(略)芋粥への偏執という事柄自体の、外にかかわる意味の軽さが、五位自身にも、くしゃみひとつで済むような手軽さにまで、たちまち収縮してしまう。五位はまた〈芋粥に飽かむ〉ことと同様に手軽で、しかし、〈彼の一生を貫く欲望〉を見つけるだろうし、それもたやすく破れるに違いない。そうしたすべてに、龍之介は〈世の中の本来の下等さ〉を見ていたのである。/龍之介は「羅生門」で、人間のエゴイズムの究極としての存在悪――人間存在自体の担わねばならぬ悪の形を、飢餓の極限で、悪を悪の名において許しあう無明の闇とともに描いた。「芋粥」は、そうした存在悪をかかえこんだ人間たちのからみあう〈世の中の本来の下等さ〉を、勝ち犬の恣意によって生のあかしを奪われる負け犬の悲劇に托して描いている。いわば状況悪の認識を告げた小説である。

 三好はこの作品論において、(一)の部分における〈無位の侍〉の場面に注視し、そこから読み取れる〈世の中の本来の下等さ〉を『芋粥』全体に通底するとした。「吉田説」に対抗する、〈世の中の本来の下等さ〉説、総合して「三好説」である。

「三好説」に代表されるこれら三人の作品論は、影響力大であった「吉田説」とは別の論を導いたという点で功績がある。ただおしなべて〈五位〉の人物造形と、環境とくに〈無位の侍〉をして読者に提示する〈世の中の本来の下等さ〉を通そうとすると、〈利仁〉までもが京に住むその他大勢の無情・非情の者達と同様であるという論調になってしまう。吉田が(二)(三)をほぼ黙殺したのに対し、三好らは、一応は(二)(三)の〈利仁〉と出会ってから敦賀までの道中の解釈をつけた。しかし巨大なテーマを冒頭か末尾に見つけて中間を恣意的に解釈してはならないだろう。

五、典拠あるいは素材と、テクストとの差異

 読解の前に、典拠としての今昔物語集および宇治拾遺物語の該当説話、そして典拠というより素材といった方がよさそうなゴーゴリの『外套』の内容を確認してそれぞれ比較し、どこを受容し、どこを削ったのか、何を加えたのかという点において『芋粥』との差異を見つけ、芥川の独創部分を検討する。『外套』については中篇小説のため、未読でもなるべく理解できるよう、長い梗概を書く。

 

・『外套』梗概 

 ペテルブルクのある局に一人の官吏がいた。名前をアカーキイ・アカーキエヴィッチと言い、冴えない顔貌と禿頭の万年九等官という下級官吏である。文書係に勤め、書類の写しを仕事とした。アカーキイはこの写字という仕事を愛していた。俸給は年四百ルーブリ。

 アカーキイは上役からも同僚からも果ては役所の守衛からも小馬鹿にされていて蝿であるかのように無視をし、同僚からは様々な悪戯をされる。課長連は愛想一つ言わず、いきなり鼻先へ書類をつきつけるといった具合である。ただ自分の仕事に支障が出るような過ぎた悪戯をされた時、『構わないで下さい! 何だってそんなに人を馬鹿にするんです?』とだけ言う。任命されたばかりの一人の若い男はこの言葉を耳にし、胸を突かれ、人間の内心に多くの薄情さ、兇悪な野生があるのを見出す。それほどこの言葉には一種異様な響きがあるのだった。

 アカーキイは服装に無関心で普段の制服は色褪せていた。極寒のペテルブルクで必要となる《外套》も修繕だらけのぼろぼろで周囲から《半纏》と呼ばれていた。再び修繕の必要を感じ、仕立屋ペトローヴィッチのところへ持っていった。ペトローヴィッチはこの《外套》はもう修繕できない、新調する以外に法はないと言う。新調代八十ルーブリのうち、四十ルーブリの蓄えがあるが残り半分にあてがなく、歳末賞与の四十ルーブリは使い道が既に決まっているため、普段の貧乏暮らしをさらに切り詰めて代金を捻出することにする。苦しい生活の中、新しい《外套》ができると思うと以前よりも心は充実していた。

 そんな折、思いがけず賞与が六十ルーブリ支給されたことによって意外に早く、外套代八十ルーブリができた。新調した外套を着て満足そうに役所へ行くと周囲は騒ぎ出し、祝いの会を開こうと言い出した。アカーキイがまごついている内に、副課長が話を引き取って副課長宅で夜会を催す運びになった。アカーキイは今日のうちにもう一度新しい外套を着ることになると思うと満更ではなかった。

 ところが夜会の帰り道、追い剥ぎにあい、外套を盗まれてしまう。駐在所でも、警察署長にさえもとりあえってもらえず、アカーキイは同僚の助言で、とある有力者に警察を動かしてもらうよう頼み込みに行った。この有力者は勅任官として今の地位に成り立てで、下役には怒鳴り散らして威厳を見せつける癖があった。アカーキイはそれを喰らい、這々の体で吹雪の中を家に帰った。その際、扁桃腺を冒され、数日後そのまま死んでしまった。

 アカーキイが死んだあと、街の夜中に官吏の姿をした幽霊が外套を奪うという噂が広まった。むろん正体はアカーキイの亡霊である。あの時の有力者を亡霊となったアカーキイはついに見つけその外套を奪うとアカーキイの亡霊は出なくなった。

 

・相違点

『外套』の〈アカーキイ〉と『芋粥』の〈五位〉の人物造形は酷似している。他人からは蝿のように扱われ、悪戯の度が過ぎないと抗議の一言さえ口にしない。その一言に胸を突かれる任命されたばかりの若い男は、あの丹波出の〈無位の侍〉である。(一)から(四)に『芋粥』を分けたうち、(一)が叙述する〈五位〉とその周囲の描き方は模倣と言ってもよいものである。

芥川が独創した箇所は、〈アカーキイ〉の仕事に熱中する性質を〈五位〉から奪ったこと。

 

 加えたところは、尨犬を痛めつけている京童との場面である。この「京童が尨犬を痛めつけている」場面が一番の独創であると考える。

 

 その他全体的には、仕立屋ペトローヴィッチは酒飲みで素面の時にしか、まともに仕事をせず、かつ他人に無意味なからかいをして面白がっている人物で、題名『外套』の新調の必要を説き、実際に新しい外套をもたらすというあたり、〈利仁〉の人物造形にも影響を与えていよう。

 副課長宅の夜会へ行く場面は、(三)の敦賀への道行の場面と似ている。目抜き通りに居を構える副課長宅への道のりの風景描写は、行きは夜の街のきらびやかさを描くが、帰りは人気のないひっそりした描写へ変わる。追い剥ぎにあう予兆として不安のイメージで描いている。

 ただその後の、有力者のくだりや、外套を失った結果、死亡してしまう点、さらに復讐の亡霊になるという後日譚は削除されている。『芋粥』における芋粥それ自体は『外套』における外套のような、生死に関わるものではない。〈五位〉も小説の幕が閉じた後であろうと死んだとは読めない。

 

今昔物語集について

 今昔物語集宇治拾遺物語の説話、両方が典拠として指摘されるが、今昔物語集宇治拾遺物語にさほど異なった点はないため、今昔物語集の方で見ていく。資料の注釈部分から簡単な梗概を引用する。

芋粥好きの五位が藤原利仁にはかられて敦賀の家まで連行され、豪勢な歓待攻めに目を見張ったが、一夜明けて、膨大な芋粥の接待にあずかり、日ごろの思いとは裏腹に、うんざりして食欲も起きなかったという話。帰京時、五位が莫大な贈り物を受けたという思わぬ不労所得のモチーフ』があったとする。

 

・相違点

 両古典の主人公は〈利仁〉である。また〈五位〉は、〈利仁〉と同じ基経に仕える身だが、長年仕えて幅をきかしているとある。〈五位〉の詳しい人物描写もなければ、また待遇や他人からの見られ方もずいぶん違う。あくまで〈利仁〉が徹頭徹尾、下手に出ている。敦賀への道中や、狐のエピソードは同じ。敦賀の〈利仁〉(有仁)の館での待遇もほぼ同じ。ただ夜伽の女は削除されている。加えられた点は詳細な心理描写と、敦賀行きの道中の風景描写である。芋粥に食べる前からうんざりした、という点は同じだが印象が異なるよう描かれている。結びでは、この館に〈五位〉は一月ほど滞在して大いに楽しみ、土産物で高価なものをもらって帰っていくという応報譚として締めくくっている。

 この古典には、当時の京と地方の関係性、とくに地方勢力の財力が京と比較して逆転してきているという、歴史的な背景が反映されているのは言うまでもない。五位の服装がくたびれて描かれているのは古典も『芋粥』も同じだが、その目的は異なり、京対地方の財力差を明確にするために過ぎないであろう。

 

 典拠と素材になったのは、一つは十九世紀のロシア文学、一つは日本の古典である。冒頭(一)に『外套』の影響があまりに大きく、その後の展開も『外套』の影響が引き続いている。むしろ今昔物語集宇治拾遺物語の説話の方は、形だけ借りた、ようは箱として機能しており、中身は『外套』といった感じである。芋粥への欲望と、外套への欲望の類似性を発見し、二つの素材をたくみに組み合わせ、描写面の独創を加えたと言えようか。

 その組み合わせ方だが、たくみだと言った手前、次の点を指摘しづらいがあえて言えば、アンバランスを生んでいはしないか。『外套』の影響をもっとも強く受けた(一)の〈五位〉の人物描写等々にテーマを見出す向きがある一方、(四)の今昔物語集及び宇治拾遺物語の説話からとった芋粥への幻滅に重きを置いてテーマを見出すという、二つの解釈が脈々と受け継がれていることが証左になろう。

六、読解

・『芋粥』に描かれた〈利仁〉像

 〈利仁〉は、〈五位〉に対して悪意だけを向けるわけではない。〈五位〉の方でも〈利仁〉をそのようには見ていない。果たして〈利仁〉に悪意があるのかどうかと問われると、有る、と答えるのだが、それは京に在住する〈五位〉を取り巻く人間たちとはまた違った、〈朔北の野人〉の〈悪意のようなもの〉であると言える。

 〈利仁〉が『芋粥』でいかに描かれているかを見るには、テクスト内を四分割したうちの(二)(三)を読み解いていく作業が要るのだが、まずは(一)の或る部分に注意すべきである。

 

本文(1) (三七頁)(下線部筆者)

或る日、五位が三条坊門を神泉苑の方へ行く所で、子供が六七人、路ばたに集まって何かしているのを見た事がある。「こまつぶり」でも、廻しているのかと思って、後ろから覗いて見ると、何処かから迷って来た、尨犬の首へ縄をつけて、打ったり叩いたりしているのであった。臆病な五位は、これまで何かに同情を寄せる事があっても、あたりへ気を兼ねて、まだ一度もそれを行為に現わした事がない。が、この時だけは相手が子供だと云うので、幾分か勇気が出た。そこで出来るだけ、笑顔をつくりながら、年かさらしい子供の肩を叩いて、「もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれれば、痛いでのう」と声をかけた。するとその子供はふりかえりながら、上眼を使って、蔑むように、じろじろ五位の姿を見た。云わば侍所の別当が用の通じない時にこの男を見るような顔をして、見たのである。「いらぬ世話はやかれとうもない」その子供は一足下りながら、高慢な唇を反らせて、こう云った。「何じゃ、この鼻赤めが」五位は、この語が自分の顔を打ったように感じた。が、それは悪態をつかれて腹が立ったからでは毛頭ない。云わなくともいい事を云って、恥をかいた自分が情なくなったからである。

 この京童らに打たれている尨犬こそ、〈五位〉そのものであると(しばしば五位を喩える時、語り手が犬のようと書くように)見るのは容易いし、実際、その比喩の意もある。この、『外套』にも今昔、宇治拾遺にもどちらにもない芥川の全くの独創部分は、単に前者の比喩のみではない。〈利仁〉像を示していると同時に、テクスト全般に通じてくる象徴的な箇所として、特に下線を施した単語など意味深に、挿入されているのである。

 

   * * *

 

 さて、(一)で〈五位〉がいかなる人物かを説明した後、(二)の饗宴の場面で〈五位〉は〈利仁〉とテクスト内で初めて会う。

 

本文(2) (三九頁)

誰に云うともなく、「何時になったら、これに飽ける事かのう」と、こう云った。/「大夫殿は、芋粥に飽かれた事がないそうな」/五位の語が完らない中に、誰かが、嘲笑った。(略)声の主は、(略)民部卿時長の子藤原利仁である。

 嘲笑ったのがその席の大勢ではなく〈利仁〉だけであった事、〈五位〉の芋粥の欲望を聞きつけたのもこの時〈利仁〉だった事に留意されたい。

 

本文(3) 四〇頁)

「お気の毒な事じゃ」利仁は、五位が顔を挙げたのを見ると、軽蔑と憐憫とを一つにしたような声で、語を継いだ。「お望みなら、利仁がお飽かせ申そう」

 この後、〈五位〉は「……」と沈黙しているきりだが、会話は〈利仁〉と〈五位〉の二人でやっている。次第に衆人の視線が集まり出したのはこの後である。

 

本文(4) (四一頁)(下線部筆者)

彼は、それを聞くと、慌ただしく答えた。/「いや……忝のうござる」/この問答を聞いていた者は、皆、一時に、失笑した。(略)最、大きな声で、機嫌よく、笑ったのは、利仁自身である。

 

本文(5) (四一頁)(下線部筆者)

「……しかと、よろしいな」/「忝のうござる」/五位は赤くなって、吃りながら、又、前の答を繰返した。一同が今度も、笑ったのは、云うまでもない。それが云わせたさに、わざわざ念を押した当の利仁に至っては、前よりも一層可笑しそうに広い肩をゆすって、哄笑した。

 同席の大勢が笑った対象は、〈五位〉の言動であって、〈利仁〉に呼応するように笑ったわけではない。それとともに、〈利仁〉の笑い方だけその他大勢とは異なっている。この点を吉田俊彦は次のように指摘する。

 

吉田俊彦『芥川龍之介―偸盗への道―』桜楓社、一九八七年・五月

注意しなければならないのは、嘲笑直前の「大夫殿は、芋粥に飽かれた事がないさうな。」という発言内容である。これは、意外に複雑な波及効果を持ったものと言わなければならない。それは、芋粥がなるものが余りにも高級佳味な料理であり、侮蔑の共鳴を喚び起こさないからである。(略)/利仁の発言内容が、五位の嘲弄を待ち構える宴会の座に笑いを喚び起こさないのは、彼の発言の背後に、満座の誰もが持ち合わせないような大きな生活力のあることを感知し、畏怖にも近い念に襲われたからに外ならない。この時点における沈黙者は、総て、五位と同列に位置する「負け犬」と言える。/(略)五位が躊躇後、「いや……忝うござる」と返答をした時、満座が「一時に、失笑した」のは、その返答に、五位固有のみすぼらしさが結晶し、京侍の胸中から自負毀損の危惧が消失したからであり、(略)利仁の笑いと彼以外の人々の笑いとの間には、大きな相違があると言わなければならない。

吉田俊彦、同前書、一九八七年・五月

「機嫌よく」という修飾語は、五位のみずぼらしい挨拶に対する侮蔑の感情を表わす語と解するよりも、高級佳味な芋粥を五位に振舞おうとする率直な好意が受け入れられたことによる満足や、無意識のうちに働く自己顕示欲を充足させ得た喜びの感情を表わす語と解する方が、文脈上、自然ではなかろうか。

 敦賀に住む〈利仁〉は、京の中において同調される者がいないし、〈利仁〉自身が周囲に同調できていない。いわば京の外部に住む異質な人間である。加えて〈利仁〉の性格の説明を「一つは酒を飲む事で、他の一つは笑う事」しか心得ていない〈朔北の野人〉と語り手が叙述する。高級な芋粥をいくらでも拵える事ができると言ってのける無神経さ、それを振舞いたいという純粋な好意、そこに働く自己顕示欲を隠さない楽天さと高慢さは、子供のそれである。

 といって〈悪意のようなもの〉の全くないわけではない。〈利仁〉は実際、〈五位〉を嘲笑うのであるし、軽蔑と憐憫とを一つにした声を発すのである。右の解釈を見ても、〈朔北の野人〉らしい豪快さというより、子供らしい幼稚な嫌らしさが窺える。その〈悪意のようなもの〉はさきに引用した、京童が〈五位〉に放った悪意と同種である。〈利仁〉の精神の成熟度は、京童ら、子供と同レベルである。無神経さや純粋な好意の発露は、京に住まう都会的な京童にはない。〈利仁〉像は〈朔北の野人〉ではなく、〈朔北〉の子供と言い換えた方が適切である。

 

 その〈利仁〉特有の子供っぽさは(三)の敦賀への道中でも見受けられる。

 

本文(6) (四五頁)

利仁は微笑した。悪戯をして、それを見つけられそうになった子供が、年長者に向ってするような微笑である。鼻の先へよせた皺と、目尻にたたえた筋肉のたるみとが、笑ってしまおうか、しまうまいかとためらっているらしい。そうして、とうとう、こう云った。

〈利仁〉が敦賀と最初から言わず、〈五位〉を連れ出して、粟田口、山科、三井寺まで来て、昼食をしたのち、やっと行き先を敦賀だという場面である。ここに京の住人たちのような陰湿な悪意は感じられない。が、語り手によって子供の悪戯と喩えられる。〈利仁〉の特徴をよく表した一節である。

 これまでの解釈に従って読むならば、大量の芋粥を作った事も、芋粥を前に〈五位〉が辞退しても『意地悪く笑いながら(本文 五七頁)』すすめた事も、せいぜい〈子供の悪戯〉程度の認識しか〈利仁〉にはないのである。

 そうであるから〈狐〉の使いの末にやってきた郎等たちと会う場面で『利仁は、郎等たちの持って来た篠枝や破籠を、五位にも勧め(本文 五一頁)』たりはしない。(四)の敦賀の館での〈五位〉への寝間着や酒の提供といった客人扱いこそ〈利仁〉の純粋な好意の表れである。京に住む者達と同程度の陰湿な悪意があったとしたら説明がつかないのである。

 

・〈五位〉の誤算

 〈五位〉が望んでいた、かのように思えたのはもちろん芋粥である。ただ本文ではこういった叙述のされ方をする。

 

本文(7) (三八頁)(下線部筆者)

五位は五六年前から芋粥と云う物に、異常な執着を持っている。(略)芋粥を飽きる程飲んで見たいと云う事が、久しい前から、彼の唯一の欲望になっていた。勿論、彼は、それを誰にも話した事がない。

 このすぐあと、「芋粥を飽きる程飲んで見たい」という表現が「芋粥に飽かむ」に言い換えられている。これは芥川の技巧的暗示だろうか。確かに〈五位〉は芋粥に飽きたが、飽きる程飲んではいない。しかしこの言い換えは、芋粥云々がさして重要ではないのだ、という意味合いで捉えられはすまいか。これは最後に述べたいと思う。

 〈利仁〉を、〈朔北〉の子供であるとした。「本文(1)」の引用部における「〈五位〉と京童と尨犬」は、〈利仁〉を子供のような人物とした場合、京童と入れ替えられる。というのも、「本文(1)」で〈五位〉は『あたりへ気を兼ねて、まだ一度もそれを行為に現わした事がない』のに、『相手が子供だと云うので』珍しく、「いけぬのう、お身たちは」以外の言葉、心中の言葉を発したのである。芋粥への欲望もやはり誰にも話したことはなかった。だが「本文(2)」で子供のような〈利仁〉には話してしまうのである。〈五位〉は子供を相手にした時だけ心を許す。

 では尨犬の役割は何が代わりをするかというと、敦賀の道中で〈利仁〉に捕まる〈狐〉である。「京童と尨犬」の関係性が、「京のその他大勢と〈五位〉」だと、容易く読めることは先述した。テクスト末尾で〈五位〉が芋粥を食べ始めた〈狐〉を見て、敦賀に来る前の自己を懐かしむのは偶然ではない。

 この〈狐〉は、しかしこれだけの用途だけではない。〈狐〉が登場する直前、行く先を敦賀と告げられた時、〈五位〉はこう思っている。

 

本文(8) (四六頁)(傍点部筆者)

もし「芋粥に飽かむ」事が彼の勇気を鼓舞しなかったとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京へ独り帰って来た事であろう。

〈五位〉に「勇気」が出るのは、「本文(1)」の京童と接した時と、ここの箇所、ただ二つである。「芋粥に飽かむ」事よりも、この時、対峙していたのが〈利仁〉であった事が重要である。『相手が子供だと云うので』なければ出ない「勇気」だからである。

 〈利仁〉が〈狐〉を捕まえ、命令を下して抛り投げるさまを、〈五位〉は尨犬相手のように同情を寄せていない。

 

本文(9) (四九頁)

五位は、ナイイヴな尊敬と賛嘆とを洩らしながら、この狐さえ頤使する野育ちの武人の顔を、今更のように、仰いで見た。(略)唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くようになった事を、心強く感じるだけである。

 支配されているかは別として、この時の〈五位〉の姿を描く時、語り手は〈狐〉の視線を使用する。

 

本文(10) (四九頁)

(狐は)駆け下りながら、ふりかえって見ると、自分を手捕りにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立っている。それが皆、指を揃えた程に、小さく見えた。

 子供のような〈利仁〉に心を許しすぎた〈五位〉の姿が、〈狐〉の視線を通して、〈利仁〉と同質に見て取れると解釈できないだろうか。ともあれ、〈五位〉はこの道中を楽しんだのである。(四)の敦賀の館では『夕方、此処へ着くまで、利仁や利仁の従者と談笑(本文 五二頁)』した道中が心に浮かんでくる。

 心を許す度が過ぎてしまった事が〈五位〉の誤算であった。「本文(1)」の場面を繰り返すように、(四)の敦賀の館で〈五位〉は情けなくなる。

 

・結び

本文(11) (五四~五五頁)(下線部筆者)

どうもこう容易に「芋粥に飽かむ」事が、事実となって現れては、折角今まで何年となく、辛抱して待っていたのが、如何にも無駄な骨折のように、見えてしまう。出来る事なら、何か突然故障が起って一旦、芋粥が飲めなくなってから、又、その故障がなくなって、今度は、やっとこれにありつけると云うような、そんな手続きに、万事を運ばせたい。――こんな考えが、「こまつぶり」のように、ぐるぐる一つ所を廻っている中に、何時か、五位は、旅の疲れで、ぐっすり、熟睡してしまった。

「本文(1)」で京童を最初見かけた時、「こまつぶり」でも廻しているのかと思って〈五位〉は近づいていった。「本文(1)」の再現のごとく情けなくなる事へ今回もまた、自ら近づいていった形である。

 

本文(12) (五六頁)(下線部筆者)

五位は、今更のように、この巨大な山の芋が、この巨大な五斛納釜の中で、芋粥になる事を考えた。そうして、自分が、その芋粥を食う為に京都から、わざわざ、越前の敦賀まで旅をして来た事を考えた。考えれば考える程、何一つ、情無くならないものはない。我五位の同情すべき食慾は、実に、この時もう、一半を減却してしまったのである。

『情無くならないものはない。』と〈五位〉は感じる。なぜかというに『云わなくともいい事を云って、恥をか』く自分、この後に待っている芋粥攻めを予感しているからである。事の発端は、「本文2」(二)の饗宴の場面、「何時になったら、これに飽ける事かのう」と言ってしまった事である。その事を言ってしまった自分、心の中の言葉、想いを外へ出してしまった事を情けなく思うのである。

 

 〈五位〉にとっての芋粥とは何であったかという点について、三好の前掲論文内に次の指摘がある。

三好行雄芥川龍之介論』「負け犬――芋粥の構造――」筑摩書房、一九七六年九月(浅野編、前傾書所収)

五位にとって〈芋粥に飽かむ〉という、他人の嘲笑と憐憫をまねく種でしかないささやかな願望は、実は、かれが生きてあることの証明であり、レーゾン・デートルにほかならなかったのである。/小説のまだ冒頭にちかいあたりに、五位が〈五六年前にわかれたうけ唇の女房と、その女房と関係があつたと云ふ酒のみの法師〉が同僚たちの話題になる、というさりげない一節がある。(略)このささやかな点描に気づいた読者は、五位の孤独に、コキュの嘆きがまたひとつよりそったのを知るはずである。だとすれば〈五位は五六年前から芋粥と云ふ物に、異常な執着を持っている〉という設定との符号が見逃せなくなる。(略)芋粥への偏愛は昔日の愛の代償であった。芋粥がレーゾン・デートルだといえば、確かにどこか滑稽に聞こえるが、女の愛に生涯を賭ける人間をひとは誰も心からは笑えないはずである。

 芋粥は、〈アカーキイ〉の外套ほどの価値はない。五六年前は、うけ唇の女房がレーゾン・デートル、生存の意義ではあった。それが芋粥に変わっただけである。女房も芋粥も、失ったとて命は奪われない。三好の言うように『五位はまた〈芋粥に飽かむ〉ことと同様に手軽で、しかし、〈彼の一生を貫く欲望〉を見つけるだろう』。それがまたたやすく破れるかどうかは問題ではない。

 

 〈アカーキイ〉の外套は生死に直結し、その復讐の念は彼を亡霊にまでしてみせたが、〈五位〉はこの先も生きていく。生きていくという事実は非常に重要である。『羅生門』にしても『鼻』にしても、主人公たちは選択するか受動的な態度かの違いがあるが、小説の幕が閉じた後も生きていくのだ。

 〈五位〉が、京を懐かしむのは、自己完結した自閉的で自らの心に誰の侵入も許さなかった自分を思ってである。そうした一見、諦念とペーソス(物悲し)に満ちた生き方そのものを懐かしんでいたと気付く時、その消極的ではあるが充足した京での〈生〉の形に、戻っていこうと選択するのである。敦賀に留まる気はさらさらないであろう。すると〈五位〉は安心して、芋粥へ向かって嚔をし、芋粥とそれを作らしめた敦賀の地に別れを告げるのである。

 

参考文献一覧

芥川龍之介芥川龍之介全集 第十巻』岩波書店、一九七八年五月

芥川龍之介芥川龍之介全集 第二十一巻』岩波書店、一九九七年十一月

浅野洋編『芥川龍之介作品論集成 第1巻羅生門―今昔物語の世界』翰林書房、二〇〇〇年三月

石割透『芥川龍之介―初期作品の展開』有精堂、一九八五年二月

稲垣泰一、国東文麿、馬渕和夫(校注訳者)『今昔物語集③新編日本古典文学全集37』小学館、二〇〇一年六月

菊地弘久、保田芳太郎、関口安義編『芥川龍之介事典 増訂版』明治書院、二〇〇一年七月

小林智昭(校注訳者)『宇治拾遺物語 日本古典文学全集28』小学館、一九七三年六月

酒井英行「「芋粥」小論―〈人間〉と〈狐〉―」『藤女子大学国文学雑誌(第44号)』一九九〇年三月

清水康次『芥川文学の方法と世界』和泉書院、一九九四年四月

関口安義、庄司達也編『芥川龍之介全作品事典』勉誠出版、二〇〇〇年六月

高橋博史『芥川文学の達成と模索』至文堂、一九九七年五月

夏目金之助漱石全集 第二十四巻』岩波書店、一九九七年二月

坂敏弘『芥川龍之介書誌・序』近代文芸社、一九九二年九月

平岡敏夫芥川龍之介―叙情の美学―』大修館書店、一九八二年十一月

吉田精一「『芥川龍之介三省堂(昭和十七年十二月)」日本図書センター、一九九三年一月

吉田俊彦『芥川龍之介―偸盗への道―』桜楓社、一九八七年五月

ゴーゴリ(訳者 平井肇)『外套・鼻』(岩波文庫岩波書店、二〇〇六年二月

2019 『主題歌』 柴崎友香 (講談社文庫) 感想

 

主題歌 (講談社文庫)

主題歌 (講談社文庫)

 

 

 表題作は2007年度上半期芥川賞候補作。その他、短篇の『六十の半分』『ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ』を収録。
 
 柴崎友香の小説を手に取る時、何が書かれているかではなく、どう書かれているかの方に注目していて、そして期待もしている。技巧が見たいのだ。その観点から言えば、満足できた小説だった。もちろん、話の筋、内容も悪くはないのだけど、どうしても特殊な書き方の方に先に目が行ってしまう。
 
 いわゆる三人称多元視点小説(視点人物を固定しない、複数の登場人物を視点人物とするもの)で、しかも視点移動の頻度が物凄く高い。一例を長いが引用する。
 

実加が箱を下ろそうとすると、電話が鳴った。向かいの机でパソコンに向かっている瀬川課長に目をやるより前に、愛が電話を取った。
「企画管理課です。……わたしは浅井さんじゃありません。……浅井さんはここにいます」
 直立したまま、愛は腕を伸ばして受話器を実加へ向け、販売部からです、とさらに笑顔を作った。ありがとう、と短く応えて実加が販売部と三分ほど話をしている間じゅう、愛は一歩も動かず下ぶくれぎみの顔いっぱいに微笑みを浮かべて実加を見ていた。瀬川課長がパソコンから目を上げ、机に積み上がったファイルや商品サンプル越しに愛を見た。最近テレビでよく見る漫才コンビの大柄な女の子に似ていると思ったが、言うと怒られるかもしれないから黙っていた。
「これ、修正してきました」
 愛は製薬会社の依頼で目薬の新商品につけるミニチュアマスコットのデザイン画を、実加に突き出した。ありがとう、とまた短く言いながら実加は出力されたカラーのイラストを確認した。社名のロゴは新しいものに変更され、位置も先方の指定した通りになっていた。
「じゃあ、ほかの三種類も同じように直して、小田さんに回してくれる」
「はい」
 愛は褒められた子どもみたいな顔をしていた。背が高いというよりは「でかい」という印象の愛と、赤いフレームの眼鏡をかけた小柄の実加を、瀬川課長は見比べていた。(pp.10-12)

  
 最初の視点人物は実加(ミカと読む)で、次は「愛は一歩も動かずに……実加を見ていた」とされている事から愛に視点移動が起こっている。その後すぐに瀬川課長へと視点移動している。その次は会話文を挟んで「愛は……実加に突き出した」とあるから愛に視点移動してる。すぐにまた「ありがとう、とまた短く言いながら実加は……確認した」とあるから実加に視点移動していて、最後に瀬川課長に視点移動している。
 たぶんこの分析であっているはずだと思うが、間違いがあるかもしれない。それにしてもたったこれだけのシーンの中でここまで頻繁に視点移動する小説は中々ない。なぜないのかと言うと、視点移動したポイントを追ってみようと試みた今の私ですら自信が持てないように、読み手をひどく混乱させるからだ。
 読み手を混乱させるリスクはつきまとうが、それに見合った成果は出ていると思う。
 同じ〈場〉にいる、とある人物がAの事を考えている時に、別の人物はBの事を思っている、といった複雑ではあるが現実では実際に起っているであろう現象を、そして現象が起こっているその〈場〉を、文字だけで再現しようとするならこうせざるを得ないのではないか。こうすることでその〈場〉という空間が立体的に浮かび上がってくるのが実感できた。同時に相変わらず攻めた小説を書く人だなあと感心してしまった。
 一つ断りを入れておくと、本作の全てがこの書かれ方をしているわけではなくて、複数人が一箇所に集まったここぞの時に効果的に使用されている。
 
 *
 
 小説の内容について言うと、引用部分で既に顔を見せている実加という美大出身のOLが主人公で、舞台は大阪。登場人物はかなり多く、社内の友人であるいつ子や小田ちゃんの他にイラストレーターをしている花絵、美大時代の友人である男性の森本、その知り合いのりえ、実加の彼氏の洋治、それから引用部分に出てきている瀬川課長や愛、等々であるが、だいたいはいつ子、小田ちゃん、花絵、森本とのお喋りで小説は進行していく。
 
 本作にはメインと呼ぶべき内容とサブとして扱うべき内容の二つの話の流れがある。サブの方が前景化されていて、メインの方が背景化しているきらいがあり、癖のある構成をしていて読み手に優しい小説とは言えないが、テーマは柴崎友香の小説にしては案外掴みやすい方ではないかと思われる。
 
 
 サブとして扱うべきは〈かわいい〉女の子が好きな女性たちの話の流れの方だ。小田ちゃんや花絵も相当な〈かわいい〉女の子好きで何処かの店に入れば女性店員の〈かわいい〉部分を指摘したりする。程度に関しては実加が突出している。付録に「永遠のセクシー女優名鑑」がついてくるアメリカ版プレイボーイ(日本の週刊プレイボーイではない)を入手して中身に見入るほどだ。
 しかし彼女たちに同性愛的傾向は見られない。じゃあいったい何を意味しているのか、考えてみたがいわゆる「性の商品化」に対する抵抗なのかもしれない。
 フェミニズムに明るいわけではないので的外れな事を言っていないか戦々恐々としているが、気にせずに続けると、プレイボーイに夢中になる実加が良い例で、男性が消費してきた女性のポルノグラフィーを、実加は性的興奮もなしに〈かわいい〉と愛でている。この事を考え詰めていくと本作には〈かわいい〉女の子を男性から奪取する意図があるのではないかと思うようになった。
 恐らくは扇情的なポーズをしていると思われる永遠のセクシー女優たちも、同性から性的興奮のない〈かわいい〉という言葉で断定されてしまえば、ポルノグラフィーとしての、商品としての価値は消失すると言えなくはないか。
 あくまで〈かわいい〉のであって、〈きれい〉ではない。〈きれい〉という言葉は意識的に除外されたかのように一度も作中に出てこない。〈きれい〉というとその対象との間に距離感があるように個人的に思える。だからなのか、実加は〈かわいい〉と言えるものを、たとえば旧来型の価値がなくなったアメリカ版プレイボーイと付録の「永遠のセクシー女優名鑑」を手元に置いておけるのだし、置いておきたいと思うのだ。
 
 メインと呼ぶべきは、実加の友人知人にいるアマチュア画家や、売れないバンドマンたちが経済的に、そして社会的に、いよいよ瀬戸際に立たされてきた事を憂う話の流れの方だろう。実加自身が美大出身だからそういう知り合いが多いわけだけども、歳を重ねるごとに活動しづらくなっていき、知っているバンドの解散も相次ぐ現実に寂しさを覚えている。同人的な、あるいはアマチュア活動だから金にはならない、けれど、たとえ商品としての価値がなくとも素晴らしいものはたくさんあるのに、それがなくなっていくのは残念だ、と実加は心底から思っている。
 
 サブの〈かわいい〉女の子が好きな女性たちの話の流れは、ふとした事がきっかけで実加が思いついた「女の子限定カフェ」なる企画で佳境を迎える。実加の賃貸アパートの部屋を利用した女子会、ホームパーティーのようなもので、実加たちが〈かわいい〉と思えた女性たちを可能な限り招待し、多い時間帯で10人、少ない時間帯でも6人が室内にいる状態を保ち、常時お祭り騒ぎをするというもの。この「女の子限定カフェ」は序盤で設営の手伝いをしていた実加の彼氏である洋治が仕事で出ていってしまうので、本当に女性だけの空間になってしまう。
 擬似的ではあるものの、〈かわいい〉女の子を男性から取り上げる事に成功している。それはつまり商品として見ようとする視線、価値観をも締め出して否定する事に形としては成功していると言ったら大仰だろうか。ともあれ、ここはクライマックスではない。
  
 メインの、そして本作全体のクライマックスは小田ちゃんの結婚式のシーンであることは間違いない。
 実加にとっては見も知らぬ女が突然に歌を唄いだす場面があって、彼女もまたアマチュアでプロではないが、彼女の歌を聞いていた者たちは心を奪われてしまう。実加の心境は以下のよう語られる。

テレビやラジオで流れたりすることはなくて、誰かにお金を出して買われることもないだろうけど、彼女の歌が素晴らしくて、ここにいる小田ちゃんの友人たちがこの歌を心からいいと思ったから、それでいいと思った。この歌がここで歌われたことは消えてしまわない、と実加は、自分でも不思議なくらいはっきりと強く思った。(p.135)

 これ以上の言葉の継ぎ足しが蛇足になってしまいそうな決定的な語りだが、『主題歌』という表題の由来も恐らくはこの場面にあるのだろうし、何よりこの語りの中には商品化から解放された〈かわいい〉女の子も恐らく含まれているのだろう。世間の評判や金銭では定めることができない価値を持つもの、それが何なのかはっきりと言う事はできないけれど、それを考え、見つけ出すためのヒントが本作の中には確かにあるように思える。
 
 

2019 『軽薄』 金原ひとみ (新潮文庫) 感想

 

軽薄 (新潮文庫)

軽薄 (新潮文庫)

 

 
 金原ひとみは私の好きな作家の一人だ。好きだと言っておきながら単行本で買わずに文庫化するまで待つのだが、とりあえず今まで文庫化されたものは読んできている。ドラッグと酒とセックス、それに自傷もあるか、そういった破茶滅茶な世界観とヒリヒリするような痛みを伴う作風は好みだった。
 『マザーズ』(Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞)から金原ひとみは変わったとよく聞く。子を持ち母としての視点を獲得したのだから作風に幅が出るのは当たり前だし、金原ひとみの成長だとも言えるが、しかし『マザーズ』においてはっきりと言えるほどの変化はあったろうか。まだ従来の金原ひとみらしさは失われていないように感じたのを覚えている。
 しかし『軽薄』では明らかな変化を読み手に突きつけている。今どき作家論めいたことを言うのも古臭いと思うのだけど、これは金原ひとみがかつて書いてきた作品群への訣別の小説として書かれているように思われる。紋切り型の表現が散見されて、この小説そのものが優れているとは言えないのだけど書き手にとって本作が重要な小説であることは間違いない。
 
 カナという29歳のフリーのスタイリストが主人公で、ごく普通の一人称視点で書かれている。カナの過去には、高校二年生の時に同棲していた男がいたのだが、痴情のもつれでその男はストーカーと化し、カナの背中を刃物で刺したという事件があった。存外にも軽症で済み、男も逮捕され実刑判決を受けて服役中であるにも拘らず、カナはイギリスはロンドンへ留学という名目で国外へ逃げて、ドラッグと酒に溺れた。やや持ち直した頃にイギリスで現在の夫と出会い結婚し一児を設け、夫の仕事の都合で帰国している。
 カナには種違いで年齢も離れた姉がいて、その姉の息子の弘斗という、こちらはアメリカからの帰国子女として日本に帰ってきた19歳の甥と、ふとした事から不倫関係に入ってしまう。弘斗のレイプのような、かなり強引な形で肉体関係を持ってしまって……というのが本作のあらすじというか設定で、これだけの情報だと何だか不倫物の三文小説のように思うかもしれないが、読み進めていけば全然違うことが分かってくる。
 血縁的に近い姉の息子、甥との不倫だというのに背徳感はあまり感じられないし、そもそも大して問題にもされていない。
 
 さて、紋切り型の表現が見られるというのは、次のようなこと。夫は高年収でカナ自身も有名芸能人のスタイリストを務めるやり手で、自ずと交際関係も裕福層ばかりとなって、ハイソサエティスノッブ達と良好な関係を築いているのだが、これがどうにも村上龍の書く小説に思えて仕方なかった。やたらペリエを飲む所までダブってくる。で、帰国したカナは名状しがたい欠落感、無能感を覚えていて、現代日本の病理のせいだ、そうに違いない、とでも言わんばかりに日本批評というか日本人論がかなりの紙数を使っていくつも書かれているのだが、これもまた村上龍の例えば『すべての男は消耗品である』というエッセイシリーズにくどいほど書かれた事柄と酷似している。
 パッと思いついたから村上龍村上龍と言っているだけであって、日本人論はそれこそ腐るほど世に出ているものだから、本作のそれにはどうしても既視感を抱いてしまう。
 ただ差異というかオリジナリティはさすがにあって、金原ひとみの場合は、現代日本に対する違和感を唱えながらもそれにいつしか順応してしまう、〈日本人〉であることをやめられない独特の居心地の悪さを感じている〈私〉が書かれている。
 この〈私〉像の構築はなかなか良かった。日本という母国を客観的な視点から相対化して捉えること、それは恐らく金原ひとみ自身が3.11の原発事故に際してフランスのパリに避難して得たものだと思うが、この客観的な視点は日本という国だけでなく、自分自身をも客観的に見つめる視点も同時に獲得したようだ。それゆえに本作はその視点を用いた非常に内省的な造りになっていて、だから不倫関係を描いているのにも拘らず、驚くほどに文体は乾いている。
 不倫関係を小説の軸に据えたのは、暴露されてしまえば今まで築いてきた、そして享受している恵まれた環境を失うリスクを持たせるためだろうが、そうした事態を受け容れる覚悟はあるか、といった自己への問に収斂されていく。そうまでして変わりたいのか、いや変われるのか。
 
 ここで10年という時間や、29歳のカナ、19歳の甥の弘斗という設定の意味を考えてみたい。10年前のカナはイギリスにいてドラッグと酒に溺れていて、それは若かったからという単純な理由もあるが、ストーカー男から目を背けること、心理的に逃げる事が眼目だったはずだ。
 そして弘斗という甥は、最初のレイプじみたセックスからも薄々匂わせているように、例のストーカー男と似たような暴力的な狂気を持っている若い男だと判明してくる。詳細は言わないがアメリカで事件も犯している。つまりカナが10年前の状況に再び立たされるという〈反復〉の構造をこの小説は備えている。
 もう一つ言及すると、作中でカナも弘斗も歳を一つとる。カナは30歳になり、弘斗は20歳になる。カナにとっての20代の終わりとはもう若さを言い訳にして逃げることができなくなった年齢に達した事を意味し、甥の弘斗にとっての10代の終わりとは成人するわけだから未成年時に起こした騒ぎは周囲の大人がもみ消してくれたが、これからは自分自身で責任を負わねばならない年齢に達した事を意味する。
 それぞれがたった一つ歳をとっただけで今まで臭いものに蓋をするように、見ないようにしてきた事と向き合わねばならない状況になった。
 特にカナは10年前のストーカー男の再来のような弘斗と向き合うことそれ自体が、表面上は成熟したように見えてもまだストーカー男を恐れているように過去に捕らわれている自分自身を本物の成熟に至らしめるための、重大なプロセスになるのは言うまでもない。そのためにはドラッグや酒に溺れたり、破滅的な生活や恋愛といったヒリヒリするような痛みを伴う自身の若さを捨てる必要に迫られたのではあるまいか。
 
 表題の『軽薄』というのは別に難しく考える必要はない、本文にちゃんと書かれているのだからそれに従えば良い、本作でいう『軽薄』とはある対象に不誠実な態度をとること、きちんと向き合わないで逃げていた事を指す。
 現実に対して、過去に対して、不誠実で逃げるような態度の上に築き上げた生活や社会的な地位、夫とまだ小学生の息子や裕福な暮らしは自分を偽って手に入れたものなので、これでよいのか、とカナは欠落感、不能感に陥っている。日本という国のせいではなかったわけだ。あくまでも問題は自身の中にある。そして、10年前を彷彿とさせる弘斗との付き合いの中で、カナ自身が覚醒し、『軽薄』であることをやめるまでが書かれていると言えるだろう。
 
 個人的には何かに依存し、そして逃避する事を責める気持ちは私にはないし、今までのような小説を書き続けてくれるのならそっちの方が良いとも思ってしまうのだが、しかし金原ひとみは本作でかつて書いてきた作品群から抜け出そうとしている。その先にどのような光景が広がっているのか、見てみたい気もしないではない。
 
 
 

2019 『青が破れる』 町屋良平 (河出書房新社) 感想

 2016年度文藝賞受賞作。2016年度三島由紀夫賞候補作。単行本化に際して、表題作の他に『脱皮ボーイ』『読書』の小品二篇を併録。
 
 
 町屋良平の名は、いわゆる純文学五大文芸誌(文學界、新潮、群像、すばる、文藝)が主催する各々の公募新人賞の受賞作発表号に掲載される選考通過の中で何度か見たことがあるような、朧気な記憶があるのだが、きちんと確認できるものだと2010年度の文藝賞で最終候補になっていたようだ。あと一歩でプロデビューを逃した後に少なくとも六年はアマチュアのまま過ごしたのであるから大変な苦労人である。その六年の効果であろうか、この受賞作は非常にレベルの高い、力の入った小説となっている。
 
 主人公は才能がないと薄々自覚していながらもプロボクサーを目指しているフリーターの秋吉という冴えない男で、この秋吉の一人称で小説は進行していく。秋吉の親友にふわふわしていて掴み所のないハルオという青年がおり、その彼女のとう子はいつ死んでもおかしくない重病に冒されている。病状が一進一退するとう子のことが書かれる一方で、秋吉の秘密の恋人である人妻の夏澄との不倫の行方も同時に描かれる。また秋吉が通うジムの後輩にボクシングの才能はあるが少々頭が足りなさそうな梅男がいて、ノリが良いのでひょんなことから梅男はハルオ達と合流する。秋吉を中心に、ハルオ、とう子、夏澄、梅男と過ごした約半年の日々が綴られる。
 
 本作はかなり抑制が効いていて贅肉が一切ない小説だ。削れる部分はとことん削ったことが読んでいて実感できた。大事なことをあえて書かずに読み手に伝える省略技法が大変素晴らしい。センチメンタリズムが主題の一つなので説明過多になったらそれこそ白けてしまうから、これ以上のバランスはないだろうと思えてならないのだ。
 それから、さして難読とも思えぬ漢字をあえて開いて平仮名を多用する特異な文体の効果は抜群だったように思う。
 
 その、あえて漢字を開いて平仮名にしてある部分に注目しながら読んでいくといったい何を表現しようとしているのかが何となくわかってくる。何も無計画にただ奇抜さを狙って漢字が開かれているわけではない、とても戦略的に漢字と平仮名は使い分けられているのだ。
 平仮名が多用される部分ときちんと漢字に変換されている部分を比較して読んでいくと、感情が支配的、あるいは昂ぶった場面では平仮名が多用され、分析的、論理的な叙述の場面では漢字変換されていることがわかる。両者を分かつのは〈思考〉というフィルターがあるかないかだ。本作を読み解く鍵概念は〈思考〉である。
 というのも〈思考〉という言葉を秋吉はこんな風に捉えている。引用しよう。
 
 
 おれはパンチがこわい。「目え、つぶんな!」とトレーナーによくいわれる。おれはスタミナ切れがこわい。スタミナとは勇気のことだ。どんだけふり絞っても、相手を倒すまではまだまだ止まれないという勇気。そしてシステムのことだ。試合が終わるまでは終わらない、意志という名のシステムのこと。おれは練習がこわい。たとえば、おれはロードワークしてもボクシングのスタミナはつかないと思っている。ボクシングのスタミナはボクシングでしかつかないとおもっている。
 だけどほんとにこわいのはそんなことを思考してしまうおれ自身だ。きっとおれはいざというとき、おれに還ってしまう。相手のパンチを避けて自分の拳をうちつける一瞬に、ボクシングと一体になって、おれという人格を捨ててボクサーに成りきれなければ、きっと勝てない。おれはおれを捨てないと。
 思考は敵だ。(p.13)
 
 
 秋吉は理性的な人間であるから、ボクシングとは何ぞやということを論理的に考えることができる。論理的な分析が一概に不要だとは思えないが、いざボクシングのリングに上がれば、そこは闘争が行われる野性的な空間であるから何かを考えている暇はない。〈思考〉したその一瞬の時に隙きが生じて命取りになる、と秋吉は分かっていて、しかも苦しいことにはそんなことを〈思考〉してしまう時点で駄目ということも分かっていて……と延々続いてしまうから「〈思考〉は敵だ」という極論が出てくる。対照的に〈思考〉するのが苦手そうな梅男はボクシングが滅法強くてスパーリングの相手をする秋吉はいつもボコボコにされるという皮肉的な状況に陥っている。
 一方であえて漢字を開いた不自然なほどに平仮名が多用される場面を見てみると、まず目立つのが、いつ死んでもおかしくない重病人のとう子を見舞う場面だ。「死」という圧倒的な厳しい現実に直面している人間を前にすると、〈思考〉の出番はない。おまけにどこかあっけらかんとしたある種の気丈さを振りまくとう子の姿は、却って哀れさや痛々しさが喚起され胸がいっぱいになるだろう。それからハルオととう子の仲もそうだが、秋吉と夏澄の場面など、男女間の場面もやはり〈思考〉より感情や感覚が表に出てくるから漢字は平仮名に開かれている。そして場面のトーンを問わずに感情表現の単語、例えば、すき、きらい、かなしい、かわいそう、などといった言葉は本作中では徹底して漢字変換されていない。
 感情が表出している、または感情そのものを表す言葉たちには、〈思考〉つまり脳みその中で一旦考えて漢字を探す作業をしないで、ダイレクトに口から音声として出てきて言語化したその一瞬を捕らえた、という状況を表現するために難しくもない漢字をあえて平仮名に開いたのではないか。そうすることによって〈思考〉より感情の方が上位にある、ということを執拗に主張していると思うのだが、このことはこの小説のオチに密接に関わってくる。
 
 ネタバレをしてしまうと、というか帯にも紹介文にも書いてあったのでネタバレもクソもないと思うのだが、とう子だけでなくハルオも夏澄も終盤に畳み掛けるように唐突に死ぬ。
 その様子があっけなく感じられるのは、〈思考〉が先行している秋吉がついに感情を捨てたからだ。秋吉の一人称なので、本文にもあるように《無感覚》になった秋吉は「死」を、情緒豊かに長々と言葉を費やして語ることが不可能になっている。しかしそれは秋吉による心の自己防衛であったことを暗に示して小説は幕を閉じる。つまりは《無感覚》にまで心を、感情を麻痺させなければ耐えられないという意味であることは容易にわかるのだが、心を麻痺させなければならないほどの哀しさが、いったいどれほどのものだったかが書かれないだけにより一層、胸が締めつけられてしまった。
 
 題名は『青が破れる』とある。ボクシングでは赤コーナーがチャンピオンで、青コーナーが挑戦者である。結局はボクサーになれなかったし今後もなれない(と思われる)秋吉のことを鑑みるに「青」とは永遠の挑戦者である秋吉のことかもしれない。やぶれるは敗れるとも書けるのだが「破れる」と表記されている。「青」の何が「破れ」てしまったのか、それはもはや言う必要はないだろう。

2019 『小説のナラトロジー ―主題と変奏 (SEKAISHISO SEMINAR)』 (世界思想社) 感想

 一般に『ナラトロジー(narratology)』は日本では『物語論』という名称で紹介された文学理論の一つであるが、字面からストーリー論のように誤解する人がたまにいるのだけどそれほど単純な物ではない。
 ロシア・フォルマリズム以降、様々に枝分かれしたナラトロジーをまとめあげ大成したとされるジェラール・ジュネットの『物語のディスクールプルーストの「失われた時を求めて」を素材としてテクストを細かく分類して定義したナラトロジーの記念碑的理論書)』によれば、いわゆるストーリー、話の筋を〈物語内容〉、そこに書かれたテクストそれ自体を〈物語言説〉、物語を語る行為を〈物語行為〉とし、大雑把に言ってしまえばその三要素の分析を通じて豊かな読みを実践する理論である。
 
 本書は12人の執筆者の各々(一つだけ例外として共作があるが)が日本国内の近現代小説にナラトロジー物語論)を適用させて論じたものを集めたものである。
 
 順に示せば
 
 (1)筒井康隆虚人たち』『美藝公』――木野光司(関西学院大学文学部教授)
 (2)大岡昇平『野火』――田端雅秀(大阪市立大学大学院文学研究科助教授)
 (3)泉鏡花『伯爵の釵』――北村誠司(奈良女子大学名誉教授)
 (4)永井荷風『珊瑚集』――北村卓(大阪大学言語文化部教授)
 (5)大江健三郎『懐かしい年への手紙』――三野博司(奈良女子大学文学部教授)
 (6)夏目漱石草枕』『虞美人草』『坑夫』――大浦康介(京都大学人文科学研究所助教授)
 (7)森鴎外追儺』――伊藤雅子同志社大学非常勤講師)
 (8)谷崎潤一郎吉野葛』――小山俊輔(奈良女子大学文学部助教授)
 (9)川端康成『浅草紅団』――小澤萬記(高知大学人文学部教授)
 (10)三島由紀夫仮面の告白』『禁色』――荒木映子(大阪市立大学大学院文学研究科教授)
 (11)中上健次千年の愉楽』――小西嘉幸大阪市立大学大学院文学研究科教授)、小林裕史(大阪市立大学文学部非常勤講師)
  *役職名は本書出版の年である2003年当時のもの
  
 となっている。
 
 全ての論考に短評を加えることも中々の難事なのでやめておくが、単にナラトロジー一辺倒というわけでもなく、またジュネットの用語に完全に依拠しているわけでもない、実にバラエティーに富んだ論文集だ。
 その中では物語の構造を分析する過程で語りのレトリックや、様々な技巧なども紹介されている。例えば、荷風の『珊瑚集』では〈パラテクスト〉論、鏡花の『伯爵の釵』では〈埋め込み鏡像〉、川端の『浅草紅団』では〈錯時法〉等々。そしてまた、全論文の中では殊に〈語り〉の問題について多く言及されている。
 それぞれの分析対象となった著名な作家たちの作品には、時には代表作とは言えないややマイナーなものが俎上に載せられているが、先述したレトリックや技巧がどのように運用され、作用しているかといった事も少なからず論じられているので、仮に分析対象の作品が未読であっても十分に楽しめると思われる。
 ただの読書ではなく多様で豊かで深い読みを実践したい人にとって、そして今現在よりももっとうまい、もっと巧みな創作をしたい人にとっても、ナラトロジー物語論)の分析の中から得られる手法と知見はきっと役に立つし、興味を掻き立てられるはずと一読して確信できた。良書である。

2019 『死んでいない者』 滝口悠生 (文藝春秋) 感想

 2015年度下半期芥川賞受賞作。
 滝口悠生は大雑把に言えば2010年代に擡頭してきた〈語り〉の技巧に意識的な作家群の一人として括ることができる存在であって、本作もまた、実験的とも言える叙法を採用している。
 
 本作のあらすじは書いてしまうと物語性が希薄なので実に呆気ない。大往生を遂げた故人の通夜に集まったおよそ30人の親類縁者の朧気な記憶のとりとめのない回想を綴ったもの、という一文で済ませられるものであり、それ以上でもそれ以下でもない。
 しかしながら書き方が異常なのだ。
 通夜に集まった全ての人物に焦点を当てたわけではないが、視点は多数の人物へと縦横無尽に移り変わる。その視点人物のあまりの多さに、読み始めのまだこちらに整理のついていない段階ではひどく散漫な調子に映るが、読み進めていけば、まあ、意図的に混乱を企図した部分も散見されるのではっきりとはしないだろうが本作の読み方、楽しみ方は掴めてくる。
 滝口悠生にしては珍しく、移人称はたぶん使われていない。だが、錯綜とした書き方は健在で、現に本作は一般に扱いが難しいとされる三人称多元視点のスタイルが用いられている。三人称多元視点はデビュー作の『楽器』の頃から見られる滝口の特徴である。本作では数えたわけではないので正確な数字は言えないが、少なくとも10人以上に視点が動く、焦点化が行われている。加えて、滝口は会話文に括弧を使わないので地の文に視点人物の台詞や独白が入り交じる。そうすると超然的な語り手(作者と思しき語り手)の語りと一人称的な台詞と独白が、何らかの区別のサインなく混交するので、人称の唐突な変化である移人称とは言い難いが、それとは別種の、あるいは新たな書き方のようなものが見受けられる。これはこれで凄いことだ。〈語り〉の境界が非常にあやふやになっていて大変スリリングに読めるのだから。
  
 もうひとつ、滝口がデビュー作からこだわっている大事な事柄、主題とも言えるものとして人間の《記憶》の曖昧さ、不明瞭さ、不完全さが本作でも取り上げられている。
 無関係ではないが、さりとてお互い懇ろでもない多数の親類縁者たちが集まると、よい意味でいい加減な会話からふと記憶が回想される。通夜という親類縁者が一堂に会する場所と時間だからこそ、ああそう言えばあの人とあの人はこうこうこういう人で誰それの息子で父で母で、といった関係性の雑な確認から(実際、本作中では誰が誰だかもうわからない、と言わせる場面もあるくらい雑である)連想ゲームのようにふと記憶が思い起こされていく。
 通夜など葬儀をハレとするのか、はたまたケガレとするのかは戦後の民俗学において決着のついていない問題だが、非日常の空間と時間であることは間違いなく、この時だからこそ、多数の親類縁者たちが回想に花を咲かせているのであって、きっとケ、つまり日常に戻ったら思い出さないだろうし、そもそも通夜のこの日のことすら忘れるだろう。特別な場と時間だから起こる回想なのだ。
 その回想が本作の大部分を占めるのだが、その中身は故人そっちのけの個人的なものが多い。後藤明生ほどではないが、回想は故人から離れていく。中心は故人のはずなのに、どんどん脱線していくのである。よくありがちな、皇居周辺的な在り方というか、中心をあえて言わずに周辺を詳細に語って芯を浮き彫りにするといった手法ではない。
 例えば、とある孫の不登校問題や酒と博奕に溺れて蒸発した厄介な孫の話がかなりの紙数を割かれているのだが、それぞれの問題行動の原因は明かされないし、明かされる気配すらなく放り出されている。その回想の細部も含めて所々が曖昧な、不明瞭な《記憶》の回想シーンは何もこの二例に留まらないのだから恐れ入る。
 
 じゃあいったいこの小説はどうなっているのかというと、一本の大木のようになっていると私は思ったのだ。
 故人を媒体に、いや故人を丈夫な太い根とした大木があって、数々の枝が伸び、枝一本一本が親類縁者たちであるとして、枝の先では一つ一つ、さして重要ではないかもしれないが確かに送ってきたそれぞれの生活、個人史という名の花が咲き乱れている、そうしてそれらの花々はどうなっているかというと勝手気ままに咲いているというイメージ。多数の回想は故人をきっかけにしてはいるが、どんどん故人から離れていきながらも魅力ある複数のエピソードとして、本作全体を構成している。
 そしてそれらは作中の語り手や視点人物が何度も繰り返し言うように、どうしてそうなったか、原因や理由や細部が不明確で《わからない》。語り手が《わからない》と直截に言うのだ、読み手がわかるはずがない、けれども各エピソードはそれぞれじゅうぶん面白いものであるのだし、《わかる・わからない》はもはや問題ではないのではないか。
 記憶に対する曖昧さ、いい加減さ、肝心なところがわからなかったりするのは実に人間らしい。何がと言って、人間は機械ではないから何もかもを正確に覚えていられるわけがないという点だ。だから《わからない》と作中で幾度となく言ってしまう語り手の態度は投げやりでも無責任でもなく、逆に生真面目とさえ言える。 
 機械ではなく、また小説の都合により無理やり全知の存在にされたり、あるいは不自然なほどとある記憶を鮮明に覚えているような、人間離れした登場人物は語り手も含めて一人もいないのだ。
 「この小説は人間が描けている」とか「描けていない」といった紋切りの批評用語があるが、本作『死んでいない者』はどうかというと、愚直なほどにリアルで虚飾のない、生きている人間(=「死んでいない者」)が見事に描けている小説なのである。