2016 ラブ・ストーリーは突然に お題「初めて買ったCD」

お題「初めて買ったCD」

 記憶の輪郭は時を経るごとにぼやけていく。色の濃淡もまた薄くなっていく。とある部分は鮮明に覚えているのに全体像が思い出せない、子供の頃の記憶は特にそうだ。過ぎし日々の追憶に耽って昔は良かったと言う人もいるが、私はそうは言えない。今の方がマシだ、としか答えられない。子供の時分にだって良い事と嫌な事はあったのだ。
 殊に家庭環境は悪かった。夫婦喧嘩が絶えなかった。怒声が響き渡っていた日々だった。父が男の特権である腕力を用いて暴力をふるえば、母は女の陰湿さを発揮して私と弟を連れて実家に帰った。父が頭を下げにやってくるまで籠城するわけである。そんな時、父は背広を着て菓子折りなぞ持って現れ土下座した。そういう父の姿を私と弟に見せる母だという事だ。その時私と弟は人質だった。
 癇癪持ちの父は怒鳴り散らしてばかりいた。社宅とはいえ借りている物件なのに壁に穴をあけたり、示威行為の脅しだろうがバカなことをしていた。
 子供にそんな環境は悪である。この頃に身に着けた処世術がある。人の顔色を見る事だ。
 男親女親の機嫌を窺ってばかりいたので双方の子へ注ぐ愛情を感じる事が難しかった。あるいはできなかった。なかったわけではないはずだと理屈ではわかるが、それを感受する心の余裕がなかったのだ。愛情というものがどういうものなのか、いまいち今でもわからない。
 しかし生涯のある一時期だけ、無償の愛を一身に受けた経験がある。母方の祖父から。

 

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 私の記憶の中の祖父の像。ガッチリした岩のようにずんぐりむっくりしていて、頭は針金のような極太の硬い白髪で覆われていて、一本一本の毛が逆立っていた。
 私は1987年生まれ。父が東京へ単身赴任している間、母の実家に身を寄せた。どれくらいの年月を母の実家で暮らしたのか。幼稚園の年中組から入った時には新しい社宅で父もいたので、1歳から4歳くらいまでだろう。
 祖父の事を詳細に語りたいがあまりに幼い日々の事、当時をどれだけ覚えているだろうか。母の実家の構成員は母、叔母(妹)、祖母、祖父だった。祖父は息子を持てなかった。家の中は女だらけであった。
 私は祖父に猫可愛がりされた。初孫で男の子だった事が大変嬉しかったそうである。そのように甘えさせてくれて、何もかも許してくれて、抱きしめてくれる、何物も見返りを求めず純粋に私を愛してくれた人間をこの祖父以外に知らない。祖母も、母と叔母の姉妹も、しつけとしての小言は言った。子育てにおいては間違っていないが、私の記憶上、祖父はこのしつけもしない。むしろ私がやり込められている時には助け舟を出してくれた事を覚えている。
 もう年金暮らしだったから昼間も暇な祖父は私を色々な所へ連れて行ってくれた。祖父の自動車は煙草のハイライトのような青色。車内にはエアコン、AV機器等がなかった。「道具は動けばいい」が祖父の口癖だったと聞いている。
 青い自動車でスーパーやデパートへ連れて行ってくれた。ねだれば何でも買ってくれた。べらぼうに高い物は欲しがらなかった。だいたいお菓子や安っぽい玩具ばかりだ。むしろ祖父が幼い私に値の高い物を買い与えた。その一つに野球のグローブとバットがある。娘とではなく、血の繋がりがある男の子と野球がしたかったのだろう。これに私が応えてあげられたか、記憶にない。
 母の実家にテレビは一台しかなかったから、大人たちが見ているものを私も見ていた。1991年の月曜の午後9時は、何処のお宅もフジテレビにチャンネルがまわされていたのではないか? ご多分に漏れず母の実家の一台しかないテレビも織田裕二鈴木保奈美が映っていた。私は祖父の膝の上に座ってテレビ画面を眺めていた。いつもかかっているこの歌が好きだ、と言った。後日、市内の新星堂に青い自動車が向かった。初めて買った、というより買ってもらったCDが「Oh! Yeah! / ラブ・ストーリーは突然に」。歌詞の内容が理解できていたはずがない。ただ耳心地が良かっただけだろう。
 この4歳の時に、父が県内の支店に戻って新しい生活が始まった。私と母は実家を去って社宅に移り住んだ。母が妊娠した。私の弟は1992年の8月末に生まれた。その頃祖父は胆管ガンを患い余命も少なかった。祖父が息を引き取ってたった数日過ぎて弟が生まれた。祖父は見舞いに来る母の膨らんだ腹を、執拗にさすって寂しそうに笑っていたという。

 

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 歌の好みで言えば、今の私は曲より歌詞に重きをおく傾向にある。小田和正の歌詞は、あまりひねりがない。ラブソングばかり歌い続けているのだが、詞が浅い。しかし私の耳はあの高音を好むのだろう。粗末なCDラックにはオフコース小田和正も入っている。あの8cmシングルCDは、CDラジオカセットがもう手元にないので、再生のしようがない。それでもCDラックの中に「Oh! Yeah! / ラブ・ストーリーは突然に」がちゃんと仕舞ってある。断捨離という宗教に影響された母がもう使えないだろうと言っては処分しようとするので、謂れを何度も説明しなければいけない事に難儀している。