平成29年度 読書及び創作計画、の方向性 攻める読書

 第一に優先する事柄は、物を書く事である。じゅうぶんに時間を設ける、準備するというのももちろん大事だしやっていく。それとは別に、今までの読書傾向を多少変化させていく必要を感じている。
 
これから書いていく事は、創作の刺激を得んがためのものであり、純粋な本を読む楽しみを否定する事ではないと断っておく。
 
 まだ手をつけていなかった作家、敬遠していた作家を読む事を心懸ける。
 
1.手をつけていなかった作家
 一つでも作品を読んでみた作家に対しては、感想なり批評なり、そういった解釈の方向性を私自身が知ってしまっていて、解釈の幅も知っているので、持ち合わせの型にどうしても当てはめてしまう事が挙げられる。
 つまり読書としては楽をしてしまっている。この頃よくあるのだが、知っている作家の小説でメモをとりながら読んでいると、一冊の半分程度の所でどういう感想を書けばいいかがわかってしまう。これじゃあ意味がない。
 例えば、私は文学部の日本文学専攻出身で、大学院の博士前期課程(修士課程、マスターコース)でも同じ専攻だった。卒論ゼミでは自主的に選んだ作家を頑張って調べたのだけど、それまでの1年2年3年次の演習やゼミでは、扱う作家や作品が決められていた。卒論を書くための準備だからこういう事になる。
 学部時代に私がやったのが、芥川龍之介谷崎潤一郎であって、この二人は全集を買ったし、CiNii(サイニー)で紀要論文も射程に入れて調べ尽くして読んできた。
 大学院に入ってからも私の出身校と指導教員における修士の扱いは、いきなり修論の話にはならなくて、最初の一年は他のマスターやドクターの人の発表に参加させられた。ここでさきに挙げた二人に加え、逍遥、四迷、独歩、漱石、鴎外、直哉、川端、横光、太宰、中島、中野重治、三島、辺りを研究している人がいて発表に付き合わされたので、何か発言できないとまずいから事前に調べると勝手に知識はつく。つまるところ、近代文学の文豪と呼ばれる類の未読の物を読んでも、きっと面白いと思うけど、私の中に鋳型があるから自分の中の何かが進歩する可能性が低いと実感してしまっている。

 逆に読んでいなかった近代文学で言うなら夢野久作、内田百閒、擬古文を読む感覚を取り戻せるなら泉鏡花、こういった作家を読んでみたいわけだが、この話題は以下の2.で詳しく。

 

2.敬遠していた作家
 その昔はそれこそ難解なものを読んで理解できてもできなくても読破したぞと得意顔したかった事もあってチャレンジしていたのだけど、続けていたある時に、「こういう作風のものを自分は書けるだろうか」と自信がなくなってしまって、私にも努力すれば書けそうなものを読むようになってしまったし、今もその傾向にある。だいたいここ3,4年の話。
 例えば芥川賞受賞前後の吉田修一や、長嶋有みたいな作風のものをよく読むようになった。ここで私の驕りを指摘すると、こういった日常系(?)だったら書けそうだと思っている節がある。むしろこの手の何気ない日常における心の機微を丁寧に拾い上げる作風の方が、模倣できない。努力では追いつかない感覚、センスが大事になってくるから。わかりやすい技巧が施してあるわけではないからして、努力の方向性を間違っていたのだとしたら非常にもったいない。
 傲慢な言い草になるかもしれないが、明らかに何か異質なものを小説内に設置してあったり、狙いのわかりやすいテクニックで塗り込められている作風の場合、発想の仕方は真似できる。どういう作風かと言うと、日本国内で言えば三島賞を受賞するようなタイプ、ざっくり述べると。やたらポスト何々、がつく人たちと言ってだいたい合っているかも。

 こういった作風を書く人たちは、発想を得たら後は小説内で如何にうまくコントロールして整合性をつけるかが勝負になってくる。それだけではないだろうけど、1.で挙げたものより、2.で挙げたような作風の方が、得るものが多いように思っている。誤解である可能性もあるけども、それはやってみてからでないと判断はできないから、やってみたい。

 

 以上の2点を意識して本を読んでいきたい。
 具体的な作家名を挙げるのは面倒くさいので省略するが、守りに入っていた今の読書から攻める読書をしていくべきだと、そういう次第。