2017 昔書いた多分書評 ハリガネムシ(吉村萬壱)

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2011/08/20

 ハリガネムシの、全体的の総括としては隙のない小説で完成度が非常に高い。文章文体にも特段文句を言えるものもなく、むしろ小説というものにこなれた様子すら伺え、近年の芥川賞受賞作品では質の高い方だ。それら描写の筆致の運動はむしろ正統派と言っても差し支えないしっかりとしてズッシリしたものがある。この作品に文章上ないし文体上の非難はやりづらい。確実に上手いからだ。

 では内容は、というとセックスとバイオレンスとインモラルが中心核になっており、その描き方に若干の新しさがあったかもしれないが扱った主題は1970年代後半から既に純文学の世界にあったもので、描写に隙はないものの、突き詰めて今までにない深化あるいは模索があったかと問われると疑問が湧く。作中の設定として1986~1987年としてあり、もしやすると新風を吹きこむという意識が作者になかったのかもしれないという邪推まで出来る。

 これを文学たらしめているのは、ひとえに小説全体を覆う氷のような冷ややかな視線である。心理に深く分け入らなかったのは正解でそれをした途端B級映画のようになったろう。そういった冷ややかさの他人行儀がありながら、湿気があるのか重苦しく脳味噌にまとわりついてくる感覚を覚えた。決して軽くあしらわせない、という作者の意図にわかっていながら術中にハマっていくようにすら思えた。

 

 ではこれが何故に芥川賞を取り得たかという問題に移る。この小説は言ってしまえば新しくない。テーマ以前に文体に新しさがない、中堅の作家が書いたと言われても疑えない成熟さがあるが、その成熟さは過去の文学に根を置いている。ゆえにこれ以上の進展があるかと思ってしまう。ここが一つの到達点で、書き慣れたこの筆致を変に動かすのも良くないだろう。そういう意味合いにおいて良くも悪くも新しさがない。

 内容に関して言えば、セックスとバイオレンスとそれを支えるインモラルに多くの場面で小説内での第三者の視線を持ち込み、その視線が主人公らへ迎合も賛同もしない、咎めるものであった点は新しいか、あるいは珍しいだろう。徹底的に堕ちてゆかれてない、つまり葛藤が作者的には意図的に、作中としては主人公らに無自覚に発生しうる。その点は題名にまで採用したハリガネムシにも表れている。一連の無軌道さは、比喩としてのハリガネムシの力の介在に頼らざるを得なかった。その辺りを意識すると、彼らはひどく弱いのである。

 と、いう風に個人的見解をつらつら述べつつ、選考に目を移すと受賞に真っ向から反対したのは宮本輝だけである。彼は文学の選考委員としてやってはいけない倫理道徳の立場から批判してしまった。これはいけない、文学はいつの時代でも常にそれを破っていってこそであって、この言い分を認めると退行現象が起きる。よって話にならない評だ。

 実際、このようなセックスアンドバイオレンスとインモラルを作品全体の中心核に据えて、上手く書かれると古い古くないという調子でしか言及できない。それは文学というものが常に常識や既成価値観を突破しなければならないという大前提を全選考委員が重々承知だからだ。

 受賞の理由は、芥川賞という特異なこの文学賞の機能にある。時代の鏡として、良かれ悪しかれ新しい風を推奨するという機運のこの文学賞は、時代を写す鏡の一方で時代を規定する側面も同時に持ち合わせる。何はともあれ、受賞作を純文学として称揚するので、ある表現を推進する機能も取れれば、打ち止めする機能も持っている。

 説明しなおすと「この小説に賞をやったのだから、もうこの手の小説にはやらない」という警告として読み取れる向きがあるのだ。しばらくというか、この2003年第129回芥川賞まではこの手の刺激物を認めてきた感はある。が、以降はやや受賞作に毛色が違ってきたと感じる。つまりセックスアンドバイオレンスをここで一旦打ち止めにしたわけだ。

 正味な話、性や暴力のその克明な描写等々は小説という表現媒体の中で完全に追い払うのは無理だろう。何故なら世界に溢れている事象であり避けてばかりもいられないからだ。だがそれを本テーマに据えてじっくり描く、という姿勢及び流れは第129回芥川賞が断ち切った、これが本作の受賞理由の裏側に思える。