2018 『赤い高粱』莫言(岩波現代文庫) 感想

 中国現代文学を読むのは初めてのことだ。本作の作者である莫言の2012年ノーベル文学賞受賞がなければ、私の狭い視野に入ってこなかったかもしれない。
 日本と中国は漢字文化圏でありながら、発音の違いのせいで、本書では少々厄介なことが起こっている。主に人物名などの固有名を漢字で表記して、読みは中国語発音が付されており、慣れるのにとても苦労した。よっぽど漢字を開いて、カタカナで表記した方が良かろうに、と若干不満を思ったが、まあこれは措いといて。
 
 舞台は山東省高密県の東北郷という架空の土地だ。そこで〈わたし〉の一族の物語が展開される。土着的、土俗的であり、時間軸もバラバラでありながら、一つ一つのエピソードが相互に連絡し、補完し、読み進めていくうちに全体像が掴めてくるというもの。語り手の〈わたし〉の祖母、祖父、父の話が主だったものとなる。
 奇妙な語り手〈わたし〉は一人称のまま、あたかも祖母、祖父、父たちを、1920年、1930年代の時代を知り抜いているかのように、凄まじい内容の物語を語り続ける。注意して読んでいけば、この異様な事態は、口承された物語を東北郷に住まう老いた住民たちから聞き取って獲得したことに拠るものだとわかる。つまるところ、物語のデータベースとして〈わたし〉は存在する(まるでオリュウノオバのように)。実際、〈わたし〉自身は作中には登場しないのだ。そして三人称のように登場人物達の心理に深く分け入り語ってしまうのだから(こんなことは通常であればありえない、小説だからできるテクニックだ)、本作は語られた=騙られたものとして読むべき、と莫言に示されている気がしないでもない。
 こういった形式を見るにつけ、訳者や解説も平然とマジックリアリズムのものであると指摘する。莫言自身もマルケスやフォークナーに影響されたと言っているくらいだ。しかしながら、内容にマジックはあったか? 現実的にありえないような物事があったろうか? むしろ苛烈なほどにリアルな対物描写ではなかったか?
 マルケスよりフォークナー、つまりサーガの体裁が強く反映されてあるのではないか。東北郷サーガと呼んだ方が適切だ。本書は文庫化に際し、一巻の長編を二分割した前篇のようであるから、恐らく『続・赤い高粱』でも東北郷を舞台にした〈わたし〉の一族のサーガが書かれているのだろう。
 マジックがあるとすればこの語りの形式、一点であり、また本作の最大の特徴も、この〈わたし〉の時空を超えた語りにある。
 
 1930年代末の局地的な抗日戦争の様子、当時まだ優勢だった日本軍と、その配下に進んでなった傀儡軍(元中国軍の一部)の蛮行や戦闘が、ありのまま描かれる。銃撃戦での殺し合いの様子や、日本軍によるおぞましい残酷な私刑が克明に描写されるさまには圧倒される。凄惨な光景がありありと像を結ぶ。
 砕ける肉、剥がされる皮、飛び散る血、いとも簡単に失われていく生命。抒情性は一切なく、ドライな構え方が、却って描写の強度を増加させているようだ。
 この地方の伝統的な作物である、高粱の畑が効果的に働く。高粱が、この地方の野蛮で、しかし力強い人間の隠喩であるとの指摘は肯けるものがある。多くの散っていった人間達の血肉を吸い取って死をたらふく食らった大地から栄養を吸い上げる。一方で荒々しい生命の息吹の象徴でもある。祖母と祖父が肉体的に結ばれる場もまた、この高粱畑だった。高粱畑が、善悪を区別せずにこの土地で起こる出来事の全て、住まう人々の運命を何代も何代も見守り、受け止めているようだ。