2018 『明るい夜』 黒川創 (文春文庫) 感想

 2005年度三島由紀夫賞候補作。文庫になってのちの2009年、京都の書店員で決める京都水無月大賞を受賞。
 後者の方は聞き覚えのない賞だが京都の書店員が投票で決めるらしく、関西版本屋大賞のようなものらしい。そうして本作はそれに選ばれるのも尤もな小説ではある。最初から最後まで舞台は京都なのだから。それでいて、古刹名刹の類はほぼ出てこない。象徴的に作中で使われるのは賀茂川と高野川の合流地点である鴨川の三角公園などであって、観光都市の京都ではなく、また歴史の教科書に載るような京都でもない、ありふれた庶民の生活の場としての京都が描かれている。この地に暮らしたことのない私でも受け取れるくらいのセンチメンタリズムが生活の場としての京都を背景に展開されているので、雰囲気を味わう小説として読んでも構わないだろうが、まともに読解をしようとすると捉えづらい小説だという事がわかる。やはり黒川創だ、一筋縄ではいかない。
 
 本作の分析の鍵となるのは〈思いだす〉という行為だ。モラトリアムは副次的なもののように感じられる。〈思いだす〉には立ち止まらなければならない、あるいは遡らなければならない。そしてまた、上にて鴨川が象徴的に使われていると書いたが、鴨川に限らず他の河川や、あるいは銭湯が大事な場面で使われるように、〈水〉もまた重要な意味合いを持つようだ。
 
 本作の大部分は〈わたし〉こと朋子の一人称で叙述される。
 朋子は風呂なしのぼろアパートに住んでおり、大学卒業後はアルバイトで生計を立てている。アルバイト先のファミレスの同僚であり友人でもあるイズミちゃんは、正社員時代に深刻な不眠症となり、職を辞した。そして朋子の彼氏である工藤くんは、小説を書きたいと本屋の店員を辞めたのだが、一向に小説を書こうとせずに、鴨川沿いで、あるいは朋子の部屋で、脳天気にぶらぶらしている。
 工藤くんはなぜ仕事を辞めたのかわからないくらいに小説を書くことに自信を持てていない。朋子やイズミちゃんに至っては京都の市街地に意地でも居ようとする理由は、単に実家に帰りたくないというくらいの弱いものしかない。
 こう書いていくとモラトリアムを延長したものの、行き詰まった若者達の葛藤でも書かれていそうな気がしてくるが、実際に読んでみるとそうではない。というか、人間そのものの動向は本作に限ってはそれほど重要ではない。彼らが前にも後ろにも動かないで京都に居続けることの方が重要だ。なぜというに、現在の京都を見る視線が保てるからだ。現在の京都を見る役目は、小説を書こうとしている工藤くんの目が主に担当しているように思えるが、朋子やイズミちゃんの視線も欠かせない。
 
 本作の冒頭部と第一章は、時間軸で言えば本作最終章の続きという形をとる。銭湯の湯船の中にいる朋子がこれまでを〈思いだ〉している体をとっているのだが、漫然と読んでいると気づけないほどさりげない。本作では時間の連続性が価値を持たない。どこにどのエピソードが挿れられても違和感なく読めてしまう。
 始まりが銭湯の中というのは示唆的だ。湯船のお湯は流れを止められた温水のたまり場と言えるだろう。この場面ではお湯と同じく、時が止まっていると言ってよい。朋子とともに橋の上から三角公園を眺めるイズミちゃんが苦々しく京都北部の山奥の実家のことを〈思いだす〉のも、つまりは鴨川の流れを見下ろしながら橋の上で静止している瞬間だったりする。
 その他、これは意図的だと思うのだが同じぼろアパートに住む老爺や、大家の老婆など、高齢の登場人物が多い。彼らに未来という時間はあまり残されていない。大家の老婆が自身の昔の日々を、昔の京都を〈思いだす〉場所は、朋子とともに浸かっている流れの止まった銭湯の湯船の中だ。老爺がかつて友禅染をやっていたことを〈思いだす〉のも、鴨川の川沿いを朋子と上流方向へ歩んでいる場面だ。そして小説全体の進行として、場所は京都北部へと移っていくのだが、それは水の流れとは正反対への歩みである。水の流れと正反対の山奥にあるのは、今にも忘れ去られそうな、人々の記憶から消えてしまいそうな集落と、とりたてて特別でも有名でもない火祭りだ。きっと誰かが見に行かなければその集落も火祭りも〈思いだ〉されなくなってしまうだろう。
 このように作中に出てくる水はまさに過去を、記憶を〈思いだす〉呼び水としてある。
 
 人間が主役ならばどうも停滞感を覚える、後ろ向きで話も散漫な、かったるい小説になるが、主役が人間ではなく京都だったらどうだろうか。〈思いだす〉京都は人それぞれ、世代や性別もバラバラなだけに却って豊富なバリエーションを持つ。各エピソードが一本に繋がらないもどかしさを感じるのは登場する人間を軸に考えるからで、各エピソードの場所を軸に考えてみると、京都という街が共通点となっており、途端にはっきりとした本作の狙いがわかってくる。
 一つの街を多角的な視線からとらえて浮き彫りすること、それこそが本作の主眼だ。この小説を読み終えて立ち昇ってくるのは重層的に描かれた、多彩な表情を持つ京都という街そのものなのだ。