2018 『鳥の会議』 山下澄人 (河出文庫) 感想

収録作
『鳥の会議』(初出「文藝」2015年春号、2016年度三島由紀夫賞候補作)
『鳥のらくご』(初出「文藝」2015年秋号)


『鳥の会議』
 起伏あるわかりやすいストーリーではないが、山下澄人にしては錯綜具合はそこまででもなく、従って混乱しながら酩酊しながら読み終えるということは起きないだろう。読み終えればきっと、そっけなくてごつごつとしているけれども、だからこそ純度の高い哀切さが染み入るように感じられるはずだ。
 貧困層に属する篠田、神永、三上、長田の中学生四人を中心に展開される、理不尽あるいは無軌道な剥き出しの暴力の中に、健気でイノセントな友情が確かに読み取れる、ヒリヒリとする痛みを伴った好中篇である。私は北野武の映画のようだな、と思ったのだが(頻発する特に必要とも思えない突然の暴力などから彷彿とさせられた)、まあ感じ方は人それぞれだろう。
 
 小説の筋に触れるのはこの程度でよいと思うのでもう措くとして、特殊な語りに話を移す。
 二部構成の本作のうち、特に第一部の語りのありようは特筆に値するものだ。
 冒頭こそ通常の一人称だが、すぐに篠田たる〈ぼく〉がその場にいないはずの、神永と三上と長田の三人による会話の応酬場面に突入する。その後も語り手は〈ぼく〉でありながら、客観的に神永、三上、長田の三人を描写する。このくだりはのちに〈ぼく〉が二日後に聞いたと補足されるのだが、人から聞いた話をもとに想像したという態の再現度の薄い叙述ではなく、まさにその場にいた者でしか書けないような臨場感と視界をもってして綴られているのだ。特にそう強く思わせるのは小学生の男の子と猫についての描写が、人から聞いた話をもとにした想像にしては書かれ方が異様だからだ。引用しよう。
 
 
 小学三年か四年ぐらいの男の子が歩いている少し向こうを、二台の自転車が間をあけて神社からあらわれた。一台は二人乗りだ。乗っているのは坊主頭の中学生で、前を走る自転車に乗るのは赤いジャージの上下を着て、坊主頭で頭頂部にまで届きそうな剃り込みを入れている。神永だ。後ろの二人は制服で、これらも坊主頭だ。どちらも前をはだけて、運転するのは黄色いシャツ、後ろに乗るのは水色のとっくりを着ている。前が三上で後ろが長田だ。
 道の脇に白い猫がいて、それらを見ていた。三人は猫には気がついていない。男の子はしばらくしてその猫に気がつく。男の子は猫に声をかける。猫は何も言わない。それでも男の子が声をかけ続けていると、猫は
 「ニャ」
 と鳴いた。(pp.12-13)
 
 
 断っておくがこれは三人称ではなく、語り手は〈ぼく〉のままにして書かれている。神永、三上、長田の三人の描写もさることながら、改行した後の猫と男の子の書かれ方こそ驚きではないか。〈ぼく〉が二日後に三人から聞いた話として再現できるのは最初の一段落だけで、次の段落はもう〈ぼく〉の認識が一人称の範疇から飛び出しているとしか言いようがない。なぜなら猫は神永、三上、長田の三人を見ていたが、しかし三人は猫に気づいていないと書かれるのだから、後日三人が〈ぼく〉にそのことを話せるわけがない。そして追い越した男の子が猫と戯れたことも、その瞬間には既に三人は男の子を自転車で追い越しているので知り得るはずがないから〈ぼく〉に話せない。
 つまり〈ぼく〉という語り手は時空を超えている。〈ぼく〉の視界というカメラは自転車で走りゆく三人を追わずに猫をとらえると立ち止まって、そのフレームの中に男の子が遅れてやってくるところまで写しているということになる。
 この一連の描写は映画などのような映像媒体であれば案外違和感なくやれるのだろうが、三人がその存在に気づけなかった猫、そしてその猫は三人に気づいていてその目で見ていた、という三人の認識と猫の認識までは映像媒体でもってしても表現できないのではないか。小説だからこそできることかもしれないが、それにしても奇妙さは拭えない。
 こういった奇妙な描写は本作にいくらでも転がっているのだが、もう一つだけ引用したい。
 
 
 ヘリコプターの飛ぶ音がした。それはぼくらのいる神永の家の真上を飛んでいた。そこから青い屋根や赤い屋根や茶色い屋根や川が見えていた。いくつもある青い屋根のひとつがぼくたちのいる神永の家の屋根だ。そこにぼくたちはいる。そこでぼくたちは泣いている徳田の顔を思い浮かべている。(p.22)
 
  
 こちらの引用で起こっていることは、語り手〈ぼく〉がヘリコプターの視界を乗っ取ったとでも言うべき移動をなして、近隣を俯瞰するという描写である。ここでは聴覚がヘリコプターの存在をとらえていて、そのヘリコプターからどう〈見られている〉か、という像が〈ぼく〉の認識の中で展開されていると解せる。
 本作は通常の一人称における叙述と、引用した部分に顕著な、自由に視界を移動し時には猫に、時にはヘリコプターなどに〈ぼく〉が宿ってしまう異様な描写が入り乱れて進行していく。
 
 これを佐々木敦は『新しい小説のために』(2017、講談社)というアラン・ロブ=グリエが著した評論と同名の(※原題は『Pour un Nouveau Roman』)野心的な書籍の中で次のような仮説を述べる。曰く、西洋文学が日本に輸入される明治以前の、一人称と三人称とに人称が明確に分断される前の、日本語が持っていた未分化の〈わたし〉ではないか、と。そこでは〈わたし〉が自由自在に場面を語っていたのだ、と。
 考えてみれば私が本作の書かれ方を異様だと感じてしまうのは、一人称と三人称(と二人称)という制度が確立された近代文学の側面から見ているからなのだろう。
 特に日本の場合、自然主義文学は〈本物らしさ〉=〈リアル〉=〈リアリズム〉を小説という媒体でひたすら目指してきた。その際、一人称であれば、視点人物の視界はその人物の目に見えるものしか書いてはいけない、という根拠不明の制約が設けられてそれは現代にまで引き継がれてしまった。そうやって視界を狭めた方が〈リアル〉だという思い込みまで継承してしまったくらいだ。
 
 山下澄人がやろうとしていることは一人称の制約を壊すことだと思うのだが、しかしそのありようはかつての近代以前の未分化の語りを復古させたというのとは少々違って、殊に本作では《一人称の限りない拡張》をやろうとしているのではないかと思えてならない。そして一人称だ、三人称だ、と区分けする馬鹿馬鹿しさを見せつけているかのうようでもある。
 というのも長すぎて引用はさすがに控えるが、本作では空白の改行をしてから〈移人称〉らしき事態が起こって、もうこれは完全に三人称だろうという叙述が長く続く場面が散見されるのだが、それらは最後の方になって急に文中に〈ぼくは〉と出てくるのだ。そう、本作は全て、一人称で叙述されている。たとえどんなにこれは三人称だろうという部分が出てきても、語りの実権を握っているのはあくまでも〈ぼく〉なのだ。仮に〈見る〉側の主体が明示されていなくても、その奥に必ず〈ぼく〉が潜んでいる。これを〈新しいわたし〉と命名するよりかは、《一人称の限りない拡張》とした方が私にとってはしっくりとくる。
 

 『鳥のらくご』
 『鳥の会議』の続篇のような短篇だが、こちらはほとんどが会話文で成り立っている。しかし簡潔で質素ながら地の文もあるにはあるので、戯曲風の実験小説のようなものとして読んだ。この短篇は、特に序盤の方は〇〇が××に言った、というような話し手と聞き手が明かされないので誰が誰に話しているのか判然としない。
 中盤以降、老人となった長田が語り手〈ぼく〉の役を担っていて、『鳥の会議』の登場人物たちと話しているということがわかってくる。
 地の文に対し、会話文の話し手が「」の中で応答したり、また地の文も句読点が取り除かれたりと、独白の台詞かあるいはト書きめいた書き方が混在していく。言うなればなぜ、人間が発話した部分を「」などに入れて地の文と差別化するのか、区別するのか、そのルールの無意味さを訴えているのかもしれない。しかしながら似たようなことは谷崎潤一郎もやっていたことだし、『鳥の会議』と比べるとインパクトは弱い。
 
 
 『鳥の会議』についてだが、こんな小説が既に書かれて発表されてしまっているのだ。もう旧態依然とした制約付きの一人称小説は古いと見做されていくだろう。そういった意味では本作は創作を現にする実作者にとっては世にも恐ろしい小説として機能するのかもしれない。