2019 『青が破れる』 町屋良平 (河出書房新社) 感想

 2016年度文藝賞受賞作。2016年度三島由紀夫賞候補作。単行本化に際して、表題作の他に『脱皮ボーイ』『読書』の小品二篇を併録。
 
 
 町屋良平の名は、いわゆる純文学五大文芸誌(文學界、新潮、群像、すばる、文藝)が主催する各々の公募新人賞の受賞作発表号に掲載される選考通過の中で何度か見たことがあるような、朧気な記憶があるのだが、きちんと確認できるものだと2010年度の文藝賞で最終候補になっていたようだ。あと一歩でプロデビューを逃した後に少なくとも六年はアマチュアのまま過ごしたのであるから大変な苦労人である。その六年の効果であろうか、この受賞作は非常にレベルの高い、力の入った小説となっている。
 
 主人公は才能がないと薄々自覚していながらもプロボクサーを目指しているフリーターの秋吉という冴えない男で、この秋吉の一人称で小説は進行していく。秋吉の親友にふわふわしていて掴み所のないハルオという青年がおり、その彼女のとう子はいつ死んでもおかしくない重病に冒されている。病状が一進一退するとう子のことが書かれる一方で、秋吉の秘密の恋人である人妻の夏澄との不倫の行方も同時に描かれる。また秋吉が通うジムの後輩にボクシングの才能はあるが少々頭が足りなさそうな梅男がいて、ノリが良いのでひょんなことから梅男はハルオ達と合流する。秋吉を中心に、ハルオ、とう子、夏澄、梅男と過ごした約半年の日々が綴られる。
 
 本作はかなり抑制が効いていて贅肉が一切ない小説だ。削れる部分はとことん削ったことが読んでいて実感できた。大事なことをあえて書かずに読み手に伝える省略技法が大変素晴らしい。センチメンタリズムが主題の一つなので説明過多になったらそれこそ白けてしまうから、これ以上のバランスはないだろうと思えてならないのだ。
 それから、さして難読とも思えぬ漢字をあえて開いて平仮名を多用する特異な文体の効果は抜群だったように思う。
 
 その、あえて漢字を開いて平仮名にしてある部分に注目しながら読んでいくといったい何を表現しようとしているのかが何となくわかってくる。何も無計画にただ奇抜さを狙って漢字が開かれているわけではない、とても戦略的に漢字と平仮名は使い分けられているのだ。
 平仮名が多用される部分ときちんと漢字に変換されている部分を比較して読んでいくと、感情が支配的、あるいは昂ぶった場面では平仮名が多用され、分析的、論理的な叙述の場面では漢字変換されていることがわかる。両者を分かつのは〈思考〉というフィルターがあるかないかだ。本作を読み解く鍵概念は〈思考〉である。
 というのも〈思考〉という言葉を秋吉はこんな風に捉えている。引用しよう。
 
 
 おれはパンチがこわい。「目え、つぶんな!」とトレーナーによくいわれる。おれはスタミナ切れがこわい。スタミナとは勇気のことだ。どんだけふり絞っても、相手を倒すまではまだまだ止まれないという勇気。そしてシステムのことだ。試合が終わるまでは終わらない、意志という名のシステムのこと。おれは練習がこわい。たとえば、おれはロードワークしてもボクシングのスタミナはつかないと思っている。ボクシングのスタミナはボクシングでしかつかないとおもっている。
 だけどほんとにこわいのはそんなことを思考してしまうおれ自身だ。きっとおれはいざというとき、おれに還ってしまう。相手のパンチを避けて自分の拳をうちつける一瞬に、ボクシングと一体になって、おれという人格を捨ててボクサーに成りきれなければ、きっと勝てない。おれはおれを捨てないと。
 思考は敵だ。(p.13)
 
 
 秋吉は理性的な人間であるから、ボクシングとは何ぞやということを論理的に考えることができる。論理的な分析が一概に不要だとは思えないが、いざボクシングのリングに上がれば、そこは闘争が行われる野性的な空間であるから何かを考えている暇はない。〈思考〉したその一瞬の時に隙きが生じて命取りになる、と秋吉は分かっていて、しかも苦しいことにはそんなことを〈思考〉してしまう時点で駄目ということも分かっていて……と延々続いてしまうから「〈思考〉は敵だ」という極論が出てくる。対照的に〈思考〉するのが苦手そうな梅男はボクシングが滅法強くてスパーリングの相手をする秋吉はいつもボコボコにされるという皮肉的な状況に陥っている。
 一方であえて漢字を開いた不自然なほどに平仮名が多用される場面を見てみると、まず目立つのが、いつ死んでもおかしくない重病人のとう子を見舞う場面だ。「死」という圧倒的な厳しい現実に直面している人間を前にすると、〈思考〉の出番はない。おまけにどこかあっけらかんとしたある種の気丈さを振りまくとう子の姿は、却って哀れさや痛々しさが喚起され胸がいっぱいになるだろう。それからハルオととう子の仲もそうだが、秋吉と夏澄の場面など、男女間の場面もやはり〈思考〉より感情や感覚が表に出てくるから漢字は平仮名に開かれている。そして場面のトーンを問わずに感情表現の単語、例えば、すき、きらい、かなしい、かわいそう、などといった言葉は本作中では徹底して漢字変換されていない。
 感情が表出している、または感情そのものを表す言葉たちには、〈思考〉つまり脳みその中で一旦考えて漢字を探す作業をしないで、ダイレクトに口から音声として出てきて言語化したその一瞬を捕らえた、という状況を表現するために難しくもない漢字をあえて平仮名に開いたのではないか。そうすることによって〈思考〉より感情の方が上位にある、ということを執拗に主張していると思うのだが、このことはこの小説のオチに密接に関わってくる。
 
 ネタバレをしてしまうと、というか帯にも紹介文にも書いてあったのでネタバレもクソもないと思うのだが、とう子だけでなくハルオも夏澄も終盤に畳み掛けるように唐突に死ぬ。
 その様子があっけなく感じられるのは、〈思考〉が先行している秋吉がついに感情を捨てたからだ。秋吉の一人称なので、本文にもあるように《無感覚》になった秋吉は「死」を、情緒豊かに長々と言葉を費やして語ることが不可能になっている。しかしそれは秋吉による心の自己防衛であったことを暗に示して小説は幕を閉じる。つまりは《無感覚》にまで心を、感情を麻痺させなければ耐えられないという意味であることは容易にわかるのだが、心を麻痺させなければならないほどの哀しさが、いったいどれほどのものだったかが書かれないだけにより一層、胸が締めつけられてしまった。
 
 題名は『青が破れる』とある。ボクシングでは赤コーナーがチャンピオンで、青コーナーが挑戦者である。結局はボクサーになれなかったし今後もなれない(と思われる)秋吉のことを鑑みるに「青」とは永遠の挑戦者である秋吉のことかもしれない。やぶれるは敗れるとも書けるのだが「破れる」と表記されている。「青」の何が「破れ」てしまったのか、それはもはや言う必要はないだろう。