2019 『軽薄』 金原ひとみ (新潮文庫) 感想

 

軽薄 (新潮文庫)

軽薄 (新潮文庫)

 

 
 金原ひとみは私の好きな作家の一人だ。好きだと言っておきながら単行本で買わずに文庫化するまで待つのだが、とりあえず今まで文庫化されたものは読んできている。ドラッグと酒とセックス、それに自傷もあるか、そういった破茶滅茶な世界観とヒリヒリするような痛みを伴う作風は好みだった。
 『マザーズ』(Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞)から金原ひとみは変わったとよく聞く。子を持ち母としての視点を獲得したのだから作風に幅が出るのは当たり前だし、金原ひとみの成長だとも言えるが、しかし『マザーズ』においてはっきりと言えるほどの変化はあったろうか。まだ従来の金原ひとみらしさは失われていないように感じたのを覚えている。
 しかし『軽薄』では明らかな変化を読み手に突きつけている。今どき作家論めいたことを言うのも古臭いと思うのだけど、これは金原ひとみがかつて書いてきた作品群への訣別の小説として書かれているように思われる。紋切り型の表現が散見されて、この小説そのものが優れているとは言えないのだけど書き手にとって本作が重要な小説であることは間違いない。
 
 カナという29歳のフリーのスタイリストが主人公で、ごく普通の一人称視点で書かれている。カナの過去には、高校二年生の時に同棲していた男がいたのだが、痴情のもつれでその男はストーカーと化し、カナの背中を刃物で刺したという事件があった。存外にも軽症で済み、男も逮捕され実刑判決を受けて服役中であるにも拘らず、カナはイギリスはロンドンへ留学という名目で国外へ逃げて、ドラッグと酒に溺れた。やや持ち直した頃にイギリスで現在の夫と出会い結婚し一児を設け、夫の仕事の都合で帰国している。
 カナには種違いで年齢も離れた姉がいて、その姉の息子の弘斗という、こちらはアメリカからの帰国子女として日本に帰ってきた19歳の甥と、ふとした事から不倫関係に入ってしまう。弘斗のレイプのような、かなり強引な形で肉体関係を持ってしまって……というのが本作のあらすじというか設定で、これだけの情報だと何だか不倫物の三文小説のように思うかもしれないが、読み進めていけば全然違うことが分かってくる。
 血縁的に近い姉の息子、甥との不倫だというのに背徳感はあまり感じられないし、そもそも大して問題にもされていない。
 
 さて、紋切り型の表現が見られるというのは、次のようなこと。夫は高年収でカナ自身も有名芸能人のスタイリストを務めるやり手で、自ずと交際関係も裕福層ばかりとなって、ハイソサエティスノッブ達と良好な関係を築いているのだが、これがどうにも村上龍の書く小説に思えて仕方なかった。やたらペリエを飲む所までダブってくる。で、帰国したカナは名状しがたい欠落感、無能感を覚えていて、現代日本の病理のせいだ、そうに違いない、とでも言わんばかりに日本批評というか日本人論がかなりの紙数を使っていくつも書かれているのだが、これもまた村上龍の例えば『すべての男は消耗品である』というエッセイシリーズにくどいほど書かれた事柄と酷似している。
 パッと思いついたから村上龍村上龍と言っているだけであって、日本人論はそれこそ腐るほど世に出ているものだから、本作のそれにはどうしても既視感を抱いてしまう。
 ただ差異というかオリジナリティはさすがにあって、金原ひとみの場合は、現代日本に対する違和感を唱えながらもそれにいつしか順応してしまう、〈日本人〉であることをやめられない独特の居心地の悪さを感じている〈私〉が書かれている。
 この〈私〉像の構築はなかなか良かった。日本という母国を客観的な視点から相対化して捉えること、それは恐らく金原ひとみ自身が3.11の原発事故に際してフランスのパリに避難して得たものだと思うが、この客観的な視点は日本という国だけでなく、自分自身をも客観的に見つめる視点も同時に獲得したようだ。それゆえに本作はその視点を用いた非常に内省的な造りになっていて、だから不倫関係を描いているのにも拘らず、驚くほどに文体は乾いている。
 不倫関係を小説の軸に据えたのは、暴露されてしまえば今まで築いてきた、そして享受している恵まれた環境を失うリスクを持たせるためだろうが、そうした事態を受け容れる覚悟はあるか、といった自己への問に収斂されていく。そうまでして変わりたいのか、いや変われるのか。
 
 ここで10年という時間や、29歳のカナ、19歳の甥の弘斗という設定の意味を考えてみたい。10年前のカナはイギリスにいてドラッグと酒に溺れていて、それは若かったからという単純な理由もあるが、ストーカー男から目を背けること、心理的に逃げる事が眼目だったはずだ。
 そして弘斗という甥は、最初のレイプじみたセックスからも薄々匂わせているように、例のストーカー男と似たような暴力的な狂気を持っている若い男だと判明してくる。詳細は言わないがアメリカで事件も犯している。つまりカナが10年前の状況に再び立たされるという〈反復〉の構造をこの小説は備えている。
 もう一つ言及すると、作中でカナも弘斗も歳を一つとる。カナは30歳になり、弘斗は20歳になる。カナにとっての20代の終わりとはもう若さを言い訳にして逃げることができなくなった年齢に達した事を意味し、甥の弘斗にとっての10代の終わりとは成人するわけだから未成年時に起こした騒ぎは周囲の大人がもみ消してくれたが、これからは自分自身で責任を負わねばならない年齢に達した事を意味する。
 それぞれがたった一つ歳をとっただけで今まで臭いものに蓋をするように、見ないようにしてきた事と向き合わねばならない状況になった。
 特にカナは10年前のストーカー男の再来のような弘斗と向き合うことそれ自体が、表面上は成熟したように見えてもまだストーカー男を恐れているように過去に捕らわれている自分自身を本物の成熟に至らしめるための、重大なプロセスになるのは言うまでもない。そのためにはドラッグや酒に溺れたり、破滅的な生活や恋愛といったヒリヒリするような痛みを伴う自身の若さを捨てる必要に迫られたのではあるまいか。
 
 表題の『軽薄』というのは別に難しく考える必要はない、本文にちゃんと書かれているのだからそれに従えば良い、本作でいう『軽薄』とはある対象に不誠実な態度をとること、きちんと向き合わないで逃げていた事を指す。
 現実に対して、過去に対して、不誠実で逃げるような態度の上に築き上げた生活や社会的な地位、夫とまだ小学生の息子や裕福な暮らしは自分を偽って手に入れたものなので、これでよいのか、とカナは欠落感、不能感に陥っている。日本という国のせいではなかったわけだ。あくまでも問題は自身の中にある。そして、10年前を彷彿とさせる弘斗との付き合いの中で、カナ自身が覚醒し、『軽薄』であることをやめるまでが書かれていると言えるだろう。
 
 個人的には何かに依存し、そして逃避する事を責める気持ちは私にはないし、今までのような小説を書き続けてくれるのならそっちの方が良いとも思ってしまうのだが、しかし金原ひとみは本作でかつて書いてきた作品群から抜け出そうとしている。その先にどのような光景が広がっているのか、見てみたい気もしないではない。