2019 『蛇にピアス』 金原ひとみ (集英社文庫) 再読後の感想

蛇にピアス (集英社文庫)

蛇にピアス (集英社文庫)

 

 戦後の文学の新陳代謝の仕方は石原慎太郎芥川賞受賞が決定づけた。既存の価値観というスラム街が形成され、そこに住まう文学者達は保身の色を強め、縮こまり閉塞感が充満する、何故なら彼らは身を寄せ合って暖を取っているからだ。そこへ破壊者が襲来する。破壊者は美・善・義・徳といったような旧来素晴らしいとされた物の正反対からオーバースピードで閉塞したスラム街を破壊しながら駆け抜ける。破壊者の過ぎ去った後には、一本の道ができ、スラム街の壁にも一つの入口がこじ開けられる。その一本の道とその先の入口にみなが殺到するが、入口の向こうは未知で未開の地だ。また同じように自身の住まいを建て生活しようとする。そうやって再びスラム街が形成され酸素濃度が薄くなり閉塞感極まる頃、また破壊者がやって来る。どうも10年という間隔で破壊者はやって来ていそうだ。しかし破壊者は破壊するだけで新しい価値観は創造しない。それは自己存在に対し矛盾と否定を伴うからだ。

 金原ひとみの『蛇にピアス』もそのような作品になるだろう。この作品は何かを破壊していったはずだ。さて、では破壊者たる『蛇にピアス』という作品に意思があるとしたらどんな物だろうか。破壊者なので破壊衝動はある。と同時に破滅願望もありそうに思える。破滅願望とは即ち自己への破壊衝動だ。この作品の登場は少なからず新陳代謝の役目を果たしたとは思うが、破壊の方向はどうも内向きに思える。

 

 奔放な性行動と暴力、それだけでは評価されない時代にとっくに移っている。セックスアンドバイオレンスという表層的な派手さに何を託したのか、何を表現したかったのかと考える。

 身体改造欲求、それが一般にこの作品を語るキーだが間違ってはいないが最重要ではない。米国のビートニク世代や村上龍中上健次は薬物濫用で精神改造をしようとしたわけだがそれとさして変わりはない。また刺青や彫物師とサドマゾといった所から谷崎潤一郎の最初期がどうしても想起してしまうがそれも違う。別に主人公ルイは美に耽りたいわけではない。

 セックスとバイオレンスは究極のコミュニケイトだ。言葉と態度の応酬で成り立つ関係性には常に嘘と欺瞞が内包される。それを巧く描くと今流行りの軽妙なフットワークの純文学ができる。

 話がずれるが第130回芥川賞は非常にハイレベルでもう一方は綿矢りさ絲山秋子の候補作は芸術選奨文科大臣新人賞を受賞し、中村航の候補作は野間文芸新人賞を受賞している。両者共、人間関係の機微を軽妙に描く作風なわけでそういった勢力との対決でもあったのである。『蛇にピアス』はその手の作品ではない。軽妙とは無縁の、質量の重さを感じる。その重さとセックスアンドバイオレンスは蜜月だ。

 自我の確立ならぬ自我の崩壊、と言って大袈裟なら自我の徹底的な不安定さ、それがこの小説の最大テーマだ。セックスとバイオレンスは究極のコミュニケイトだと言った。主人公ルイの心は常に不安定で病的でさえある。そのギリギリの心持ちを支えているのは他者依存だ。そして他者に求めるのは言葉ではなく嘘偽りが介入出来ない暴力と性交になる。

 共依存の関係にあったマサが死に、恐らくシバがマサを殺したのだがそれでもルイがシバを糾弾もしなければ離れる事もないのは不安定な自我の支えになってしまっている他者を失う事になるからだ。ルイにとって自身の命すらどうでもいいのでボロボロになっていくがそれでも寄りかかれる樹を求めている。言葉よりももっと純度の高い接触を求めた末に産まれたのがこの作品、であると思う。

 兎にも角にも金原ひとみを語る時に欠かせなくなるのは「他者依存」という言葉なのかもしれない。あくまでデュー作を再読して得た感覚ではあるのだが。