読書と競馬

競馬は文学である

2017 昔書いた多分書評 ハリガネムシ(吉村萬壱)

データ整理で出てきた中でまだ読めるものをなるべくup

 

2011/08/20

 ハリガネムシの、全体的の総括としては隙のない小説で完成度が非常に高い。文章文体にも特段文句を言えるものもなく、むしろ小説というものにこなれた様子すら伺え、近年の芥川賞受賞作品では質の高い方だ。それら描写の筆致の運動はむしろ正統派と言っても差し支えないしっかりとしてズッシリしたものがある。この作品に文章上ないし文体上の非難はやりづらい。確実に上手いからだ。

 では内容は、というとセックスとバイオレンスとインモラルが中心核になっており、その描き方に若干の新しさがあったかもしれないが扱った主題は1970年代後半から既に純文学の世界にあったもので、描写に隙はないものの、突き詰めて今までにない深化あるいは模索があったかと問われると疑問が湧く。作中の設定として1986~1987年としてあり、もしやすると新風を吹きこむという意識が作者になかったのかもしれないという邪推まで出来る。

 これを文学たらしめているのは、ひとえに小説全体を覆う氷のような冷ややかな視線である。心理に深く分け入らなかったのは正解でそれをした途端B級映画のようになったろう。そういった冷ややかさの他人行儀がありながら、湿気があるのか重苦しく脳味噌にまとわりついてくる感覚を覚えた。決して軽くあしらわせない、という作者の意図にわかっていながら術中にハマっていくようにすら思えた。

 

 ではこれが何故に芥川賞を取り得たかという問題に移る。この小説は言ってしまえば新しくない。テーマ以前に文体に新しさがない、中堅の作家が書いたと言われても疑えない成熟さがあるが、その成熟さは過去の文学に根を置いている。ゆえにこれ以上の進展があるかと思ってしまう。ここが一つの到達点で、書き慣れたこの筆致を変に動かすのも良くないだろう。そういう意味合いにおいて良くも悪くも新しさがない。

 内容に関して言えば、セックスとバイオレンスとそれを支えるインモラルに多くの場面で小説内での第三者の視線を持ち込み、その視線が主人公らへ迎合も賛同もしない、咎めるものであった点は新しいか、あるいは珍しいだろう。徹底的に堕ちてゆかれてない、つまり葛藤が作者的には意図的に、作中としては主人公らに無自覚に発生しうる。その点は題名にまで採用したハリガネムシにも表れている。一連の無軌道さは、比喩としてのハリガネムシの力の介在に頼らざるを得なかった。その辺りを意識すると、彼らはひどく弱いのである。

 と、いう風に個人的見解をつらつら述べつつ、選考に目を移すと受賞に真っ向から反対したのは宮本輝だけである。彼は文学の選考委員としてやってはいけない倫理道徳の立場から批判してしまった。これはいけない、文学はいつの時代でも常にそれを破っていってこそであって、この言い分を認めると退行現象が起きる。よって話にならない評だ。

 実際、このようなセックスアンドバイオレンスとインモラルを作品全体の中心核に据えて、上手く書かれると古い古くないという調子でしか言及できない。それは文学というものが常に常識や既成価値観を突破しなければならないという大前提を全選考委員が重々承知だからだ。

 受賞の理由は、芥川賞という特異なこの文学賞の機能にある。時代の鏡として、良かれ悪しかれ新しい風を推奨するという機運のこの文学賞は、時代を写す鏡の一方で時代を規定する側面も同時に持ち合わせる。何はともあれ、受賞作を純文学として称揚するので、ある表現を推進する機能も取れれば、打ち止めする機能も持っている。

 説明しなおすと「この小説に賞をやったのだから、もうこの手の小説にはやらない」という警告として読み取れる向きがあるのだ。しばらくというか、この2003年第129回芥川賞まではこの手の刺激物を認めてきた感はある。が、以降はやや受賞作に毛色が違ってきたと感じる。つまりセックスアンドバイオレンスをここで一旦打ち止めにしたわけだ。

 正味な話、性や暴力のその克明な描写等々は小説という表現媒体の中で完全に追い払うのは無理だろう。何故なら世界に溢れている事象であり避けてばかりもいられないからだ。だがそれを本テーマに据えてじっくり描く、という姿勢及び流れは第129回芥川賞が断ち切った、これが本作の受賞理由の裏側に思える。

2017 予想 第52回札幌2歳ステークス(GIII)

 札幌競馬場、最後の重賞は2歳中距離重賞、札幌2歳ステークス(G3)
 せっかくの土曜重賞なので、2歳戦は不得意だがやってみよう。さすがに開催が進んできたので、小回り洋芝と雖も、先週の札幌の芝は差しが意外と決まっていたような覚えがある。
 芝1800m戦は最初のコーナーまで185mで、小回りという事もあり、一応のセオリーとしては内枠有利、先行有利となる。
 未勝利戦組はあまり信用しない。全部切るのは乱暴だが、重賞で通用する力があれば新馬戦で決めているはず。他、カク地(地方馬)は穴になるのでおさえておくと幸せになれます。

 

3連複フォーメーション
一列目
◎10クリノクーニング
 オルフェーヴル産駒。前走函館では終始三番手をキープし、抜け出す際の上がりも素晴らしく時計は最速。このレースにも出走するカレンシリエージョを1馬身半離した。そのカレンが未勝利戦にまわって凄まじいパフォーマンスを見せたのでなおさらこの馬の評価が高くなるのは当たり前だ。馬番10番がちょっとネックだが、まあ大外よりはマシだろう。ハナに行くわけでもないし、外目から被せるように3,4番手辺りで先行できる。

 

二列目
◯11ロックディスタウン
 鞍上は札幌で好成績をマークしているルメール。前走は新潟芝の外回りとはいえ、上がり3ハロン32.5秒は脅威。軸にしなかったのは洋芝がどうなのかわからなかったから。
▲1シスターフラッグ
 母のミラクルフラッグの母、つまり母母にポイントフラッグがいるので近親ゴールドシップとなる。新馬戦では上がり3ハロン一番の35.1秒で、二番は35.6だからこの馬だけ圧倒的な脚を使っていた事になる。最内、札幌得意の岩田。買い。
☆4カレンシリエージョ
 本命馬の所でも触れたけど、前走の未勝利戦は2着に8馬身離す大楽勝。鞍上が池添なのもプラス材料。全姉にアドマイヤリードがいる血統。
☆7ダブルシャープ
 カク地の門別の馬だが前走のクローバー賞勝利。意外と札幌2歳Sはカク地が来るので、前走を中央競馬で勝っているのならそれなりに信用していいはず。大抵の人はカク地を切っちゃうので中穴になる。3着内に入ってくれると嬉しい。
 

三列目
△3ミスマンマミーア
 こちらも地方馬。前走のコスモス賞2着はクビ差で、タイム差なしと通用している。穴として面白い。
△6コスモインザハート
 前走新馬勝ちは全頭おさえておいた方が良いだろう。
△14ファストアプローチ 
 大外枠が非常に痛く上の印をつけられない。前走の未勝利戦では5馬身差つけた圧勝なのでおさえはするが。

 

 

買い目
3連複フォーメーション
10 ― 1,4,7,11 ― 1,3,4,6,7,11,14
の18点。

 

夏競馬最終週を楽しみましょう。
GOOD LUCK!!

2017 予想 第19回新潟ジャンプステークス(J・GIII) 新潟(土)8R 3250m

 新潟の障害コースは、設置される竹柵障害の間隔が長く、差しで決まらない。とはいっても穴としては通じる。1,2,3着全てが先行で決まってしまう場合もあるが、やはり1頭は脚質差し追い込みやマクリが入ってそれなりの配当を演出してくれる。如何に差し馬を馬券に組み入れるかのレースと言えそう。

 

3連複軸1頭相手7頭流し

◎3グッドスカイ
 新潟障害は、障害未勝利戦を勝ち上がった思い出の地。他、前々走のオープンも新潟障害で3着。前走の東京ジャンプステークスでは2着。阪神スプリングジャンプ以外では全て3着内を確保している。中山のJGIクラスで勝負できるかはわからないが、手薄な夏の障害重賞でなら好戦必至といった様相。先行脚質だがハナに拘るわけではなく、多少の融通は効く。今回も仮に勝てなくともしぶとく3着内は確保するだろう。軸に最適。

 

以下、全部ヒモ
△2メイショウアラワシ
 昨年の中山グランドジャンプで3着がある。近走では障害オープンで3戦連続で4着と煮え切らないが3着候補なら。
△5タナトス
 問題は一年間の長期休養明け。叩きと見ても差し脚質の中では実績がある方。おさえる。
△6ラステラ
 脚質は先行。勝ち負けには加われないと思うが障害オープンを2勝、その内一つは新潟障害によるもの。
△7ツジスーパーサクラ
 前々走で新潟障害のオープンを勝利。前走で一叩きした。中団に構える形かと思われる、中穴。
△8リスヴェリアート
 前走の休み明けは中京の障害オープンで勝利。マクリであって問題は自分から積極的に動いていけるか。鞍上は勝手を知った北沢なのでおさえる。
△9ホーカーテンペスト
 障害オープンで好成績を残してきた馬、相当に期待されるはずで人気上位は確実。きちんと印をつけるなら対抗評価にしただろう。崩れるのかさらに強さを見せるかわからないが、休み明けと障害重賞初挑戦を鑑みて軸ではなくヒモへ。
△11ハギノパトリオット
 新潟障害の巧者。脚質は差しかマクリ。今までの勝ち方が派手だった分の人気の仕方はするだろうけど東京ジャンプステークスの内容に不満だ。こちらもちゃんと印つけるなら単穴評価になると思う。3番手ね。

 

3連複軸1頭相手7頭流し
3-2,5,6,7,8,9,11 の21点。
GOOD LUCK!!

2017 予想 第53回札幌記念(GII)

 一ヶ月ぶりくらいの更新。どうもこの夏は忙しいのだが、せっかくの夏の祭典なので芝レースだけど札幌記念を予想しよう。

 土曜の札幌の芝は、小回りという特質も手伝っているのだが断然先行有利。チョイ差しは決まる。むろん、洋芝適性も重要な要素だ。函館、札幌での実績は評価していきたい。

 

 三連複フォーメーションで予想。
一列目
◎6タマモベストプレイ
 短距離一族母ホットプレイから出た突然変異のステイヤーで、もしかしたら丹頂Sが目標かもしれない。が、恐らく函館記念でも同じような事を考えて外した人が多いはず。
 若き三歳の頃であればシンザン記念3着、きさらぎ賞1着、スプリングS2着と中距離でも重賞実績はあったのだ。とすれば前走函館記念2着はフロックとも思えない。距離に目をつむれば洋芝適性、特に札幌適性が異様に高い。必ず先行する脚質は強力な武器になる。
◯3ヤマカツエース
 徐々に力をつけ、今やGIの一つくらいは勝てそうなものだといった所まで這い上がってきた馬だけに、この札幌記念は秋競馬の叩きだろう。だとしても有馬記念4着、大阪杯3着、金鯱賞連覇など実績はじゅうぶん過ぎる。
 洋芝はどうなのかというと、少し微妙。15年に函館記念3着好走。札幌記念は今年で3年連続の挑戦で4着、5着。能力でこなしているだけで洋芝が得意とは言えなさそうだが、この馬、脚質は自在。池添含めた陣営が位置を取りに行く作戦なら勝って全然おかしくない。

 

二列目
(本命、対抗に加える形で)
▲5マウントロブソン
 前走福島テレビOP(オープン特別)で見事に長期休養明けを勝利スプリングS勝ち馬であるように好走は中山、小倉、福島と小回りを得意としている。函館や札幌の出走経験がないため適性があるか未知数だが、鞍上モレイラが前につける競馬をするだろうから期待できる。しかしながら騎手人気しているきらいはある、本命対抗級ではない。
☆11アングライフェン
 前走、前々走を重視して。巴賞2着、函館記念4着。洋芝が合っているのだろう。函館記念にしてみれば2着~5着まで2:01.4の時計で並んでいる。勝ったルミナスウォリアーと0.2秒差。人気はないはずだから馬券内に入るだけで配当が跳ねる。

 

三列目
△7サウンズオブアース
 実績で言えばこの馬が抜けているだろうが、海外帰りだけにこの馬もここは秋競馬への叩き。洋芝も出走した経験なく未知数、鞍上からして本気で走らせる気があるか微妙である。馬は頑張っているだろうが鞍上にも頑張ってもらって良い位置をとってレースを進めて欲しい。
△9ディサイファ
 8歳となり、旬が過ぎた感はあるが洋芝は得意。昨年の当レース覇者。見限れない。
△13エアスピネル
 期待される素質馬で実績馬でもあるが、どうもパッとしない所がある。洋芝もこれが初出走だしわからない。重賞で好走を続けてきており掲示板を外した事がない堅実さから連下にはおさえる。

 

買い目
3連複フォーメーション
3,6→3,5,6,11→3,5,6,7,9,11,13
の19点。

GOOD LUCK!!

2017 昔書いた読書感想文 Part2 犀星、柳田、ヘミングウェイ、中上

 前記事の続き。青臭すぎるのは退けて、まだ読めるものを紹介。

 

或る少女の死まで―他二篇 (岩波文庫)」
室生犀星 岩波書店 693 円
読了(2013-05-17) ☆☆☆★
たとえば犀星を専門にする人は、どのようなものであっても欠陥を認めつつも容赦をしたり擁護してしまうだろう。それは作家への愛だ。作品、テクストへの愛ではない。
心境小説にもなりきれてない小説としての処女作「幼年時代」を私は諸手を挙げて評価できない。ただ、詩人を志し、まさに詩人としての立ち位置を得た犀星という作家の特有さが、文章の表現力に、感じる表出の情感と連なりに、ある一定の、ハナから散文の小説家だった人間にはできない芸当をやってのけていることは事実としてある。
それはいいとして、むしろ面白いのは、初期自伝三部作として配置された三作品が、まさに次作へ次作へと小説的に進歩している姿が興味深かった。作家伝をやる人には当然「幼年時代」が価値あるのだろうが、小説として優れているのは「或る少女の死まで」だ。こちらは読み手を飽かさせない技量がある。

 

「不幸なる芸術・笑の本願 (岩波文庫 青 138-5)」
柳田国男 岩波書店 693 円
読了(2012-10-21) ☆☆☆☆★
これはなかなか面白かった。柳田を昔話の蒐集家だと決めつけている人がいたら損である、柳田学入門の新書でも読めばわかるだろうが、柳田民俗学日本民族文化歴史学とでも言うようなもの。加えるなら柳田は詩人として出発し花袋や独歩と友人関係にあった広義の作家に近い人であるから、柳田の文化論は文芸論になりうるのである。本書がまさにそう。
さて、本書に収められた二つ、順序は「笑の本願」と「不幸なる芸術」でこの配列は正しい。主題目は「ワライ」から「ウソ」「ヲコ」へと続いていく。まず「笑の本願」の始めの方から、笑うという行為が非常な攻撃性を主としたものであるということを説き起こす。全く私にはこういう考えがなかったから目を覚まされた思いがした。一般に笑うのは楽しいからおかしいから愉快だから、であって、テレビをつければ笑ってくれという番組で溢れている。
しかしよくよく考えればこれは笑いの攻撃性の無化の成果なのだと思う。柳田曰く、笑う者は優位に立ち、笑われるものは劣位に立たされた。笑われるものは相当な精神的損害を被り、恥辱、屈辱の限りを味わって圧倒的な敗北感に沈められるのである。これが敵味方に群衆が分かれていれば笑いによって闘争が起こっていると言える。笑われるものは言うなれば哀れな者であるから、「吉」や「彦」を名にもつ者を主人公にした一村落に伝わる笑い話の場合、別の村の「○吉」「○彦」は~という形で別の離れた共同体、村の馬鹿者の話として伝わっていく。笑いは攻撃だからである。もし同村落内に笑いの対象が生ずるとすれば、それは村八分された、排斥された者という事になろう。それを現代に置き換えればこの頃また騒ぎ出したイジメ問題なのである、あれは笑いの原始的な性格である攻撃性が発揮されたがゆえの悲劇であろう。
笑いが多分に攻撃性を含み、刀剣に勝る武器たりえた一方で、人類は笑いを求めた。笑い話を作る際、作中で笑われるものはダメージを負うのだから、ただおかし楽しい笑い話を作るにはウソが要った。そのウソの効用は~、と続いていく。ちなみにヲコは馬鹿の事であってこの単語の意味と用法の変遷も説いている。が、解説の井上ひさしも言っているように柳田はヒントと実例だけ語っておいてこうこう、こうである、と結論してくれない。ああ、なるほど、すごいや、とこの本を読んでいて何度となく感嘆して、さてどうまとめてくれるか? と期待して読み進めると他の周辺へいつの間にか文意は移っている。
食えない人間だと思った次第だが、笑いという事象やウソの考察は優れていて独創的である。創作をする人は読んでおけば得になると思う。特に「笑う」という状況を創作散文の中で従来通りのシチュエーションでしか使えていなかった人にとっては何がしかのヒントになるだろう。

 

「われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫ヘミングウェイ全短編)」
アーネスト ヘミングウェイ 新潮社 740 円
読了(2011-10-04) ☆☆☆☆☆
ヘミングウェイ全短編の1、高見浩訳。「われらの時代」「男だけの世界」を作品集題に据えた30編ほどの短編から成立する。とりわけ「われらの時代」の合間にカットインされるスケッチの描写も入れると収録された文章は非常に多い。パリ時代、ヘミングウェイ初期の全てを読み込むのにうってつけの短篇集だ。
ヘミングウェイのその小説の特徴、中でも短編に強く表れる「省略」「強調」「氷山の理論」の造成と練磨の過程が窺い知れる。一等重要なのは氷山の理論で、氷山は海面上に見えるのはわずか20%に満たない。重要なのは海中に隠れた80%である、と。簡潔にして深みのあるこの文体はハードボイルドという文芸用語で語り継がれていくがやはり現物にあたった方がいい。
それからやはりヘミングウェイは男のための文学だ。彼の表面上の題材は、戦争、釣り、闘牛、競馬、格闘技等々だ。男どもが血を沸き立たせ、時に涙するほどの感動に包まれる男の趣味嗜好をここまで上手く書ききる作家は古今東西探しても滅多にいない。
各短編をよく登場するニック・アダムスの成長ストーリーとして読むのも可能だが、私は単にヘミングウェイの分身の少年としてだけ捉え、短編一つ一つを独立させ味わった。
文体の簡潔さと氷山の理論から、語り口もストーリーも何も難しい事はないのに、味わおうとすると、いやどういう小説なのかと解釈しようとすると非常に読み手に頭を使わせる小説ばかりだ。だからきっと読了するのに時間がかかる。だが読み終えた後に、他の作家が如何に文章や筋書きを肥え太らせていたかがわかるだろう。肥満は醜悪である。
個人的に特に気に入ったのは「インディアンの村」「三日吹く風」「ファイター」「兵士の故郷」「ぼくの父」「破れざる者」「白い象のような山並み」「五万ドル」「十人のインディアン」である。

 

「讃歌―中上健次選集〈8〉 (小学館文庫)」
中上健次 小学館 880 円
読了(2012-08-14) ☆☆☆☆★
かくも哀しきや、中上よ、と思わず印字された文字に文章につぶやきたくなる。どのような批評用語であっても構わぬ、トポスでもよい、磁場でもよい、あるいはストレートに新宮市の架空化された路地でよい。もう路地は本当にないのだと、こんなに切なく書く必要が本当にあったのか。
物語は正史とでも言うべき時間軸に沿っていて、「地の果て」以降の路地解体ののちの後日譚たる「日輪の翼」の続編となる。これ以降は未完作である「異族」へと繋がる。
「日輪の翼」のツヨシはイーブと名前を変え男娼稼業をしている。徹底的に自己を性のサイボーグだと言い聞かせ、どんな年増女だろうと、たとえ同性であろうと性を売る。秋幸三部作以降の中上における性描写は官能の度合いを強めるのと反比例するように記号性が高まる。この作においてもそうで、中上が同性愛性交から輪姦までおよそ描けるもの全てを描写するが何処か乾いていて、路地よ、オバよと泣いているように見える。
路地=被差別部落地区の実際上の解体のあと、中上は新たな路地的トポスを探すのだ、と思った。それはこの作の前半~中盤にかけてのもとは赤線であった新宿二丁目というゲイエリアが疑似的路地に近いものを感じさせるからである。そう読ませようという意図があるとしか思えない。ここのオカマバーのママどもはマジックリアリズムにありがちな、閉鎖性を含んだ特定地区の中でソース未確認の噂=口承の拡散を行っている。不確実な言説の広がれる場所、周囲から異化されたような地区として新宿二丁目を機能させてもよかったろうに、やはり夏芙蓉を見つけ出してしまい、「日輪の翼」で姿を消した3人のオバを見つけてしまう。オバらは路地なき今、天子様のいるこの東京で死にたいと言う。書かれた年月日は87年。先の昭和帝の御世である。同じく「日輪の翼」以降、男娼に転じたターこと田中さんも合流し、熊野弁が飛び交う懐かしいダイアローグが展開される。だがターはイーブに何度となく問う。どこへ帰る? どこへ行く? イーブは明確に答えられない。三人称である以上、これは書き手中上が答えられないのと同義だ。かくして折角見つけたオバらを再度見失い振り出しに戻り、標準語を操り再度サイボーグ化したイーブは、路地でないここではマシン化して生きるほかないというように男娼稼業へ戻ろうとする。
もうこれ以上、路地に関わる事はできない。書き手は近づく死を知ってか知らずか、また新しい物語を探しに旅立つために、ここにピリオドを打って新しい小説へ向かう。

2017 昔書いた読書感想文 谷崎・安岡・直哉・中上2つ・ヘッセ・藤村

 データの整理をやっていたら4,5年前に書いた感想文が出てきたので、一部を紹介。中上の感想文だけ明らかに文字数が異常に多いのだが、昔からそれほど好きだったということでしょう。

 

「潤一郎ラビリンス〈13〉官能小説集 (中公文庫)」
谷崎 潤一郎 中央公論新社 880 円
読了(2012-02-04) ☆☆☆★
大正2,3年に発表された「熱風に吹かれて」「捨てられる迄」を主とする作品集。谷崎の初期にあたり、その作風は悪魔主義マゾヒズムが顔を覗かせていて、その面において特筆すべくはない。また官能小説集と銘打っておきながらその「官能」の趣も弱い。要は初期谷崎を読みたい人向けのものである。
さて、解説の千葉が語るものの方が面白く、曰く「熱風に吹かれて」は漱石の「それから」がモデルであるという。そして「捨てられる迄」は「門」にて落ち着いてしまった熱愛への批判的続編として書かれたと。
そう見ていくと面白いのだが、「熱風に吹かれて」はまだ読めるものとしても、「捨てられる迄」は冗長が過ぎ欠伸でも出そうな叙述が文字面一杯で、結に至っては急すぎる。というわけであって、「熱風に吹かれて」と「それから」はまだ勝負になるとして「門」と「捨てられる迄」は「門」の圧勝である。
「捨てられる迄」はあたかも「刺青」を間延びさせたような不出来な作品だ。「刺青」はあの短さと観念だけで書かれたから良かったのであって、「捨てられる迄」のように現代劇としてしまうと途端に平々凡々になる。

 

「幕が下りてから (講談社文芸文庫)」
安岡 章太郎 講談社 918 円
読了(2012-01-29) ☆☆☆☆
まず初めに、この小説を理解するには、戦後というキーワードを常に頭の中に働かせねばならないという事がある。しかも焼け野原ではなく表面上だけ復興、いや以前より物質的に発展していった戦後における日本人の精神性の問題を扱っている。これは偶然にも2011年3月11日以降の現代の我々と何処かダブる所を感じた。東北はいまだ機能しきっておらず、原発事故は現在進行形で片付いておらず、謂わばそれらが片付いた世界こそ、「もはや戦後ではない」と言われたこの小説内の世界であり、そこに心の空虚さを持て余している人間がこの小説の謙介なのだ。

えらく読みづらく、「海辺の光景」に比べれば整理のつかない複雑さを持った小説で、毎日出版文化賞を受賞しておきながら安岡文学の系譜においては語る事が半ば避けられてきた気配すらある。
この小説は確かに読みづらい。読み進めるのがいやに時間がかかる。それは時間軸がフワフワしているからだ。現在から過去へ、という大まかな流れではあるがそれこそ、過去の時期は順序を気にせず断片としてギザギザ入り込んでくる。そうした錯綜の中で主人公の内面の不安定さと感じている不気味さ、空虚さといったものを表現しようとしている。とても難解だ。駄作だ、と切って捨てられないし、傑作だと褒めちぎれない。
しかしこの表題にもある「幕」は下りており、下りてからの物語なのだ。そう、幕はもう下りている。戦争中という幕も、戦後の気分という幕も下りている。その舞台裏の人間の心模様の気味悪さとして読めば解釈も理解も味わいも違ってこよう。


「大津順吉・和解・ある男、その姉の死 (岩波文庫)」
志賀 直哉 岩波書店 632 円
読了(2012-01-24) ☆☆☆☆
志賀直哉文学のメインパート、父との不和をテーマにした三作を収録する。これは岩波文庫だが重版はしていないようだ。
一等重要なのは言うに及ばずの「和解」である。私は志賀の最高傑作は「和解」であって、「暗夜行路」は短篇を継ぎ出しただけの中の下の作品だと思っているが、志賀直哉を理解するには読まねばならるまい。その「暗夜行路」の前に読んでおくべきもの、それが大津順吉・和解・ある男、その姉の死という事になる。せめて「和解」は新潮文庫で単独収録で今も出回っていているので読んだ方がいい。
さて、内容から並び替えるならばあとがきの志賀の言葉通り、大津順吉→ある男、その姉の死→和解となる。この三篇はあたかも連作中篇のような趣がある。「ある男、その姉の死」は主人公の弟の語りでやるのだが少々出来が落ちる。一方で「大津順吉」はその青春の葛藤と恋愛問題、そして父(+祖母)との確執という点において緊張感は優れたものがある。言ってしまえば若様のご乱心による女中とのふとしたお熱、というようなものだが父に対し悪感情しかない私は非常に共感できた。志賀風の短文にして美文も冴えている。

 

「奇蹟―中上健次選集〈7〉 (小学館文庫)」
中上 健次 小学館 880 円
読了(2012-05-29) ☆☆☆☆★
路地文学のサブストーリーの中でも存在が際立ったスピンオフにも似た作品群、中本の血の一統を主題にした「千年の愉楽」と並立する、タイチの一生を書いた小説。物語は中上が築き上げたメインパートの秋幸三部作で明確に示した紀州サーガの歴史を語るかのごとくだ。語り手(ではないが)としての一応の機能を持つ今はアル中で精神病院の中のトモノオジが、幻覚でオリュウノオバとオジ自身の、そして路地の代々の若い衆達を回想するというもの。
トーリーは時間軸に多少の屈折こそあれど素直にタイチの一生をなぞっていく。中上の小説の中ではよく使われる極道、ヤクザストーリーとしての、男たちの権力抗争は単純に面白い。立派なストーリー性を持っている。

しかしことはそう簡単ではない。この小説が異様なのは、その語り方、描写の方法論だ。それら全てを詳細に語るにはまだ読みが足らない。解説は「大鏡」の二人の回顧話に批判者が一人加わるという形式のパロディとも言う、なるほど。この小説はアル中のトモノオジの幻覚の中で、既に死んでいるはずの産婆オリュウノオバとの会話という形だがそれは借り物で、正体不明の三人称体を持つ語り手が現れる。
そういった奇妙な形式の中で語られ続けていくタイチとその朋輩の物語は、常に人間と人間とではなく、人間であらざる者、「幻覚」的な声や視線が奇妙さに拍車をかけるような変奏曲を奏でる。「幻覚」というセンスを描写するということが、中上がこの小説で挑んだことではないか。同時期に村上龍が「イビサ」を書いており、それに陣野俊史は「龍以後の世界」の描写論で言及している。90年を前後するこの時期に、中上と村上は何か小説という散文の可能性の限界を突き破ろうとした感がある(なおこの時期、春樹はノルウェイの森を出してヘラヘラしていた。)
例えばトモノオジのアル中にもたらされた幻覚は自身が魚の身になり湾とあたかも同化しているかのような感覚で始まり、語り手の中での生前のオリュウノオバは仏教的幻覚を何度となく味わっているし、アキユキの異父兄として首を括るタイチの朋輩、イクオはヒロポンの幻覚によって命を絶つ(言い忘れていたが、これが中上の中で繰り返し出て来る発狂して殺してやると言いながら家へ来て首を括った兄のそれである、加えるならトモノオジの朋輩のイバラの留は浜村龍造である、イクオに関してはイクオ外伝という章でその死ぬまでが描かれている。それもこの小説の魅力だ)。ヒロポン覚醒剤といった麻薬的と、宗教的な幻覚の描写は、それがもう一つ別の、トモノオジでもオリュウノオバでも正体不明の語り手でもない「誰か」の視線であり声である。
この小説は、思った以上に前衛的で、中上のマジック・リアリズムという手法の範疇に収まらない描写論を射抜こうとしたものとして受け取るべきではないか。

 

紀伊物語 (集英社文庫)」
中上 健次 集英社 550 円
読了(2013-01-31) ☆☆☆☆★
単行本84年刊行で『地の果て 至上の時』の直後といってよい。テクスト内の時間はちょうど路地が削り取られるその瞬間を前にした状態で、「秋幸三部作」で見るならば『枯木灘』と『地の果て 至上の時』の間ということになる。当然、秋幸は秀雄殺しで大阪の刑務所にいるから出てこないが、道子を新宮の路地へ誘い込むのは唖のヨモノオバに育てられた〈良一〉だし、〈モン〉も出てくれば、名前だけだが路地撤去を実際に取り仕切った〈竹原繁蔵〉、〈美恵〉と〈実弘〉、テクスト内で臨終の床にある〈オリュウノオバ〉も出てくる。おまけに暴走族の頭で『地の果て 至上の時』で重要な役割を追う鉄男は〈テツオ〉として登場する。

本テクストは二部構成になっている。南紀地方の紀伊大島が舞台の『大島』、路地撤去が間近の末期を中本の一統で『千年の愉楽』にも登場した〈半蔵〉の二世を軸にしたものの二つ。連作でも中篇集でもなく一つのテクストに成り得ているのは〈道子〉の存在による。
『大島』においてのありようは、南紀地方でも純粋な島として周囲から海で隔絶された(しかし相当に紀伊半島に近い)紀伊大島の名士的家柄の娘、〈道子〉の女への目覚めが軸になる。父の広尾と、女郎であった母キクの落し胤として父系の系譜にいる〈道子〉は、祖母を通して、島より外の人間を嫌う。対岸の西向からその昔、漁港に鯨の屑肉を拾いに来たというニシムカエを、一切の外部の卑しいものとして扱い、己こそ広尾の種より生まれた大島生まれであるが、祖母も後妻の富枝も他所者である、ニシムカエであるとして排除しようとする。ニシムカエは疑いもなく被差別者の蔑称であろう。家柄の矜持をアイデンティティにする〈道子〉は非常に排他的な、箱入り娘のような傲慢さを隠しもしないが、本当の母キクへの思いが捨てきれず、そこに〈良一〉が土方仕事でやってくる事により、女郎であった母キクの《物語》を《反復》するように性の花を開かせてゆく。母キクが、実は路地にいた静子という名の女であったと判明して〈道子〉は路地に入る。静子もまた路地の生まれではないが、路地に流れ込んだ者であるので、《物語》の《反復》性が否が応にも強調される。紀伊大島では女王然としていた〈道子〉は、路地に入るやいなやその主体性を失ったように影が薄くなり先行する《物語》に吸収されていく。
続く『聖餐』は、『大島』と地続きで時間もそのまま連続して延長線上にある続篇とでもいうべきものだが、主人公格から〈道子〉は脱落している。文量は『大島』の二倍ほどあり、三人称単一で〈道子〉を追った『大島』とは大きく異なり、路地が舞台になることで誰が主人公格なのか判然としない。言ってしまえば末期の路地そのものが主人公である。
〈道子〉における静子の《物語》は傍系へ押しやられ、『千年の愉楽』にてクローズアップされた中本の一統の末裔たちが躍り出る。末期の路地において、〈オリュウノオバ〉は〈道子〉の宿命を予言するような言葉を吐いてついに他界する。一方で中本の一統のとりわけ〈半蔵二世〉は四人組のロックバンドを組み、死へと導く歌を際限なく歌い、実際に毒入りジュースを用意して路地とともにみな死のうとうそぶく。〈オリュウノオバ〉が死に、路地がテクスト末尾においてついにショベルカーの爪が襲いかかる瞬間を描いて、それまでの路地が保っていた神性と共同体は崩れていく。あれほどまでに崇められた淫蕩で美男揃いだが若死を運命づけられた中本の一統は、路地が崩れていくその場では邪険に扱われ気色悪がれるのだし、女版秋幸とでも言える静子の《物語》を継承し、異父兄のロックバンドの一人定男と、兄妹心中よろしく近親姦をし子を孕む〈道子〉もまた、路地健在であったなら秘事として語られ守られたであろうに、路地のオバ、イネらに拒絶される。
これ以上、《物語》の《反復》を挙げていっても冗長になるのだが、路地の〈道子〉と同年代の善視は、預け先のない位牌を進んで預かって、死んだ者の祥月命日、誰の子でどういう死に方をしたか諳んじて、オバらから〈オリュウノオバ〉のようだと言われるのだが卑小な《反復》でしかない。産婆として生の入り口に立つ路地のグレートマザーとしての〈オリュウノオバ〉には到底及ばぬ、十幾つの位牌を預っているに過ぎないからだ。
『地の果て 至上の時』において、服役を終えた秋幸が見る更地となった路地跡という衝撃的光景までの、路地の最期の時を中上自ら、『熊野集』のようなルポとも私小説ともとれるものではなく、紀州サーガに属するテクストとして描いた点は大きく、また『千年の愉楽』の分かりやすいほどの脱構築的なありよう、自壊のありようが示されている。そして路地の末期という時空間が、あたかも平安末期における末法思想のごとく再現されている点が、一番の評価のポイントであろう。複雑化する語り様とその文体を、時にオバやイネを視点に借り、センテンスの蛇行の仕方は音韻を(i)で揃える独特さも磨きがかかっている。紀州サーガの一つのストーリー、「秋幸三部作」の傍系の一つであると、それだけで評価を落とせない所以が以上の事柄である。

 

荒野のおおかみ (新潮文庫)」
ヘッセ 新潮社 540 円
読了(2012-11-13) ☆☆☆☆☆
原題Der Steppenwolf.ステッペンウルフ、荒野のおおかみ。1927年に書かれ、第一次世界大戦後のヘッセにおける精神的危機の中、その自己告白と自己分析の書として読むべき、いや読んでしまったので、文明批評うんぬんはあまり気に留めなかった。もちろんその意図や発露は見受けられてわかるのだが、大切な、重要事は前述した方面ではなかろうか。
この小説は、イージーライダーのボーン・トゥ・ビー・ワイルドなどを担当したバンド、ステッペンウルフに名を借りられた事からも明瞭であるように、ヒッピームーブメントと深い親和性を持っている。この手の、ヒッピー的作家あるいは作品というのはあって、それは少々先取りしたビートニク世代の仕事群、またはサリンジャーの仕事群がそうで、例えば東洋思想賛美とその理屈のかなりの衒学さ、または享楽的かつ刹那的な生き様、そして衒学さをあえて嫌わずブチまける心理分析の描写などが特徴として挙げられよう。
ヘッセのこの荒野のおおかみもそれはある。だがこの小説はユング派におけるシャドー(影)との対話から自己診療めいた深刻な精神的危機に対し挑むものであり、理屈は出張ってこず、衒いはない。難解だと言われがちなヘッセの作品の中であっても、その表現においての豊かな語彙の使用と、深く、深く、その深淵へ、自我の最奥へ多大な勇気でもってして突き進んでいくヘッセのそれは、決して読みやすからず、ひどく学問的な香りのする字面の洪水の中で、読み手を決して離さない、異常な緊張感が、特に後半において加速していく。
思うに登場人物の主人公ハリー・ハラーがヘッセの自画である事は当然、ヘルミーネはヘルマンの女性形名詞で、魔術劇場で七変化するパブロとは、前者はヘッセの女性的なシャドーであり、享楽的なジャズ奏者のパブロはヘッセの純粋なシャドー、両者とも無意識層において抑圧していたヘッセのもう一つもう二つあるいは無際限の人格であろう事は間違いない。まるで精神分析学の夢分析における患者の語る<夢の話>のようであった。そこに一流の作家たるヘッセが小説に仕立てたのだから、第二次大戦以降の作家群が、ヒッピーたちが担ぎあげたのも肯ける話である。
あまりに啓示に満ち、あまりに豊かでかつ深刻で、あまりに心を動揺させられた本書をもっと早く読んでおけばよかったように思う。この不安な時代の現代に、科学の化けの皮が剥がれ、第二次大戦後のような、欧州的理性の敗北としてのような野蛮さにさらされている21世紀の我々にすら、訴え、いや侵食し影響を与えてくれる。それほどの普遍性をもった魂の書と言ってしまいたい。

 

「破戒 (岩波文庫)」
島崎 藤村 岩波書店 735 円
読了(2012-05-10) ☆☆☆★
岩波は初版本を底本にしているらしい。野間宏曰く後年、水平社から糾弾され「穢多」を「部落民」に書き換え、以下生ぬるくなった故に、こそ初版本を読み、そしてこの小説の登場による功績を讃え、かつ現代文学の眼で以てして批判せよ、と。
花袋と並ぶ自然主義文学の巨匠にして日本文学、特に言文一致以降の本格散文小説の夜明けを告げた作品である。自然主義であるという事から、つまり告白の文学となる。小学教師瀬川丑松は、亡父の唯一の戒め、「穢多であると打ち明けるな」を悩み苦しみながらも最後に告白し、戒めを破る。それは人間のありのまま(自然)を曝け出すという事であり、また同じ人間という生き物に貴賎の差なしという自然科学の考えも入ってくる。
なのだが、野間の言葉を引用するでもなく、この小説には様々な欠点がある。重大な点は、藤村自身に、また小説全体に差別意識の存在がありありと反映され、それを理論で以て対抗できていない事。これは無理からぬ事と言ってしまえばそれまでかもしれない。藤村は旧家の子である。部落民でない人間に部落民の苦しみは書けない。被差別部落民が被差別部落を書く、そういう事件が起きるのは藤村の死後20数年先、中上健次の登場を待たねばならない。
他には、なるほど筋はなかなか出来たものであるが、結に至る部分でのこの楽観的と言おうか、トントン拍子の進め方は何だろうか。部落出身の丑松がついに出自を告白した後、途端に彼への扱いは優しくなるのだ、小説自体が。勧善懲悪風味でもありこの点は評価はできないだろう。
ただ結に意外に良いと思ったのは、新天地を求め信州からアメリカのテキサスへ渡るという結末である。アメリカは自由の国、という認識が明治39年の日本人の共通認識だったかは定かでないが部落民であると打ち明けた以上、もはや日本に住む処なし、ならばアメリカへという発想は現代に通ずるニッポンという社会への強烈な批判になりえるだろう。
最後に。明治期の小説としては意外なほど文章は簡潔を心がけていて飾る調子も衒いもない。と言って表現力に乏しいのではなくむしろ逆で素朴な筆の中に心象を重ねた見事な筆の運動で人を景色を描いている。のちのちゴテゴテと飾り立て、あるいはスカスカにしてみたり、日本語文章は迷走に迷走を重ねているが、この小説の文章を読むとそんな事が馬鹿らしく思えた事を記しておく。

2017 「センチメンタル・バス」「大江千里」:そう言えばあったなと思えるはずのやや懐メロ 今週のお題「私の『夏うた』」

今週のお題「私の『夏うた』」

 夏と言えばTUBEかサザンオールスターズとつい口にしてしまうのは昭和生まれの哀しい性である。私は末期の昭和62年生まれだけども。しかしながらTUBEもサザンも、ありきたりと言っても未だ根強い支持がありそうで、そういうスーパーメジャーソングは避けて、懐メロと言えるほど時間が経っていない、かつ、一瞬流行った曲の紹介を。

 

Sunny Day Sunday/センチメンタル・バス


Sentimental Bus - Sunny Day Sunday

 思い出していただけたろうか? 39度の、とろけそうな日、で始まる本曲。1999年8月4日のリリース。オリコン最高4位で通算50.9万枚売れたのだとか。スマッシュヒットしただけで終わった一発屋と言ってしまえばそうなのだけど私は結構好きなのでね。
 で、これは何で流行ったのかと言えばポカリスエットのCM曲に採用されたからだろう。たとえば03年は福山雅治の「それがすべてさ」が採用されて、これをカップリングにした「虹」が発売されると95.8万枚売れた。センチメンタル・バスと同年にポカリスエットCM曲に採用されたのがTRICERATOPSの「GOING TO THE MOON」。今でも精力的に活動するTRICERATOPSの、確か最大のヒット曲。趣旨とずれてきたが「もう流行りの曲がわからない」と嘆いている方はポカリスエットCM曲の最近のものを聞けば若い衆についていけるかもしれない。
 Sunny Day Sundayはカラオケでは歌いやすい。女性ボーカルなので高音を安定して出せる人向けではあるが。99年当時に子供であっても物心ついていれば覚えている人が多いと思うので意外とウケる。


 
夏の決心/大江千里

 これは私と同年代(±2年ぐらい?)の人は、聞いた瞬間思い出すのではないか。たとえ大江千里を知らなくても。

 1994年8月1日リリース。ポンキッキーズ世代とでも呼べるかもしれない。このポンキッキーズ、採用した楽曲の質とセンスが非常に良い。(採用曲をまとめたCDアルバム、ポンキッキーズ・メロディ1と2等がある)。
 時代を先取りしていた感もあって、たとえば斉藤和義の「歩いて帰ろう」94年4月も採用されている。今や売れ線の斉藤和義だが、無名時代でありながら採用したセンスが凄い。
 大江千里に話を戻すと、本曲は少年のうぶな心を歌ったもので、ポンキッキーズの視聴者層に合わせたような形で、良い曲。ただし、大江の歌い方は癖があって中々歌いづらい。大滝詠一みたいなもので音の高低差はさほどなく、普通に歌う分には問題はないが、似せて歌おうとすると火傷をしてしまう。私はヒトカラで練習してみたがさっぱりだった。聞くだけにした方が無難である。

 

 で、これ以外でTUBEもサザンも無しとすると、井上陽水の「少年時代」、吉田拓郎の「夏休み」などが思い浮かんだがややではないモノホンの懐メロなので割愛。

 どうも私のiTunesに入っている曲を洗ってみると、夏より秋や冬の歌が多い。恐らくは私がさして夏が好きではない、暑いから、という事情がありそうである。きっと今年も冷房のかかった部屋で夏競馬をやってうんうんと唸りながら馬券を外していく夏を過ごすだろう。
 夏が好きな人は楽しんでね。