2019 予想 第68回川崎記念(Jpn1) (交流重賞)

 年始のダート最強馬決定戦、およびフェブラリーステークス、ドバイの前哨戦とも機能する川崎記念川崎競馬2100m、Jpn1、1/30 16:10発走)を予想する。
 かなり固い交流重賞で、1番人気の複勝率は過去10年で100%、1,2,3番人気で決まる年もしばしばである。高オッズを狙うよりかは少ない点数で賭金をどれほど多くやれるかが勝負といったところだろう。

 

 交流GIともあって馬券内となった馬のレベルは高い。JRA所属、中央馬の独壇場といった様相を呈し、地方馬が馬券内に絡むことはあまりないし、ましてやその詳細を見るとこれもやはり高い能力が要求されることがわかる。
 試みに地方馬が馬券内に絡んだケースを過去10年で見てみると(2009年~2018年)並の中央馬以上の実力、実績の持ち主であるフリオーソを除けば(4回馬券内あり)、わずかに2015年3着サミットストーン(6番人気)、2011年3着(2番人気)ボランタスのみである。
 それぞれどんな臨戦過程だったかというと、サミットストーンは2走前に浦和記念(Jpn2)制覇、前走に東京大賞典競争(Jpn1)3着という結果だった。ボランタスは2走前に浦和記念(Jpn2)2着、前走に同舞台の川崎2100mの報知オールスターカップ(重賞)1着だった。直近にJpn2あるいはGII以上の交流重賞で連対があったという条件が共通すると指摘できよう。
 そして今年はそのレベルに達している地方馬は見当たらない。中央馬同士の比較を予想の要とすることで事足りる。

 

◎2ケイティブレイブ
 昨年の川崎記念覇者にして、交流GIでも数々の実績を残し、チャンピオンズカップこそ11着に大敗したが3走前に京都開催のJBCクラシックを制覇、前走は東京大賞典競争3着と、実力、調子ともに抜けているケイティブレイブを本命。
○8オールブラッシュ
 対抗にあげた本馬は2017年の川崎記念の覇者、昨年はかしわ記念2着、前走となる浦和記念を1着。例年ならば少々見劣りする実績ではあるが、今年のメンツを見る限り、実績面や調子のほどは対抗に推せる内容だ。先行脚質もプラスに働くだろう。


▲5アポロケンタッキー
 ことに実績という点では対抗にあげたオールブラッシュと同等とも言えるのがこの馬。2016年の東京大賞典競争を1着、昨年の川崎記念は2着だった。いかんせん、近走のレースで着順が悪いのが痛い。馬券内は昨年の交流GIIの日本テレビ盃2着まで遡らなけれなならないし、そも、そこを勝てなかった点も痛い。繰り言になるが実績はあるので、このメンツならば3番手だということだ。無論、旬が過ぎて馬券外に飛ぶ可能性も高いように私には思える。
△6ミツバ
 GIではワンパンチ足りないが中央、地方交流問わず、GIIIならば善戦を続けていて、前走は交流GIIの名古屋グランプリを2着と調子は上々。2017年に川崎記念4着という成績もあり、ダートの長距離(2000m以上)での能力の高さが伺える。3着食い込みなら十分あり。

穴9サルサディオーネ
 まず牝馬で、しかも重賞の勝鞍がないという点で見劣りするのだが、この馬はとにかくハナに立つか、最低でも二番手でないと好走できない。
 他馬の脚質をざっと見るとアポロケンタッキー、ミツバが前に行く可能性があるのだが、ミツバはどちらかと言えば差し馬なので無理なハナ争いはしないだろうし、アポロケンタッキーも行きたい馬がいるなら二番手に控えるだろう。ということで、この馬がハナに立てる可能性は高く、気分良く走れれば2,3着に残す、なんてことも。
 加えて、川崎記念と同舞台のエンプレス杯(交流GII)の3着という過去の実績が意外と物を言うのではないかと思えてくるのだ。おそらく人気しないので賭金は少なめになるがちょっとは買っておきたい穴馬である。

 

買い目
3連複軸2頭 3頭流し
2,8→5,6,9 の3点。オッズを見て賭金調整。

GOOD LUCK!

2019 予想 第22回TCK女王盃(JpnIII) ※牝馬限定交流重賞

 2019年、1月23日(水曜16:10発走)大井競馬場、ダート1800mで行われる牝馬限定の地方・中央交流重賞TCK女王盃を予想する。
 ここ最近忙しくて予想の記事を書けていなかったけれども、書いていないだけでガッツリ競馬はやっています。
 さて、大井というと直線は長いので差しも届く方なのだがやはり前で運べる脚質の馬がよいだろうと思われる。それと交流重賞の常として、JRA勢が圧倒的に強いのだが、牝馬限定ともなると地方馬が案外絡んだりする。つまり軸はJRA勢で固めて、ヒモとしてどういう地方馬を拾っていくか、そしてどれだけ点数を絞れるか、が予想の眼目となるだろう。

 

◎6ラビットラン(JRA)
 三歳時はローズSを勝ち、秋華賞4着などある実力馬だが三歳春まではダートを主戦場としていてもともと適性はあったのだろう。昨年のヴィクトリアマイルの大敗を受け、ダートに戻して(1.1.1.0)と着外なし。京都開催だったJBCレディクラシック2着を始めとして、交流重賞実績十分、牡牝混合でもよい勝負になるはず、ましてや牝馬限定ならば。鞍上のミルコが継続騎乗するのもプラスであり、脚質もしっかり前をとらえた好位差しタイプ。負けられないレースになるだろう。

 

○13アイアンテーラー(JRA)
 対抗格にもJRAから。クイーン賞(JpnIII)の三馬身千切った豪快な逃げ足が魅力。準オープンとはいえ、混合戦の平城京Sも逃げ切り勝ちを収めており、牝馬相手なら相当に強い。この馬と単穴の馬が1,2番手を形成し、その後ろをラビットランが追う道中となるだろうが、冬の馬場やらペースやらで逃げ切られる可能性も考慮すべきだ。
▲3エイシンセラード(JRA)
 その単穴として推すのはこの馬。年明けて4歳となったがまだ4戦しかしておらず、大変フレッシュ。新馬戦こそ5着だがそれ以降を3連勝。道中2番手につける堅実な脚質、特に今回は明確な逃げ馬がいるのでいつも通りの番手確保が容易い展開となりえよう。底を見せていない未知の能力が魅力。

 

△4ワンミリオンス(JRA)
 一昨年、2017年のTCK女王盃覇者。他に同年のエンプレス杯(JpnII)などの勝鞍がある。旬が過ぎた感はあるのだが、2018年シーズンはエンプレス杯5着、スパーキングレディーカップ4着、レディスプレリュード5着と3着食い込みもあっておかしくない着順。中団から進める馬だけに差し損ねが多いのだが、3着候補ならばじゅうぶん買える。前走の芝のアンドロメダS大敗で人気がちょっと落ちているような気もするので、オッズも良い塩梅だ。
△8クレイジーアクセル(大井)
 鞍上に御神本も良いし、何より関東オークス3着の実績が光る。JRA勢と当たっても通用する能力の持ち主ということだ。問題は脚質で、ハナを譲って新味を出せるのか、それとも玉砕覚悟で大逃げでもするか。ちょっとこの辺がわからないのでヒモで。できれば我慢して2,3番手に控えた方がよいのだが……。
△10ブランシェクール(大井)
 もとはJRA馬、昨年のTCK女王盃2着。同年にレディスプレリュード2着。差しの馬だけにどうしても展開、ペース、馬場に左右されるがまだ地方にくだって日は浅く、未だ感覚的にはJRA馬として買える馬かと思う。
△11アルテマウェポン(北海道)
 大穴として推奨するのはこの馬。低評価だった2走前のレディスプレリュードで3着、波乱を演出した。近3走が全て交流重賞なのだが、ブリーダーズゴールドカップが上がり2位、レディスプレリュードが上がり1位、クイーン賞は上がり2位で5着。
 もしもハイペース前崩れなんてあるようならば、この馬が再び嵐を呼ぶ可能性はある。

 

買い目 
3連複フォーメーション
6→3,13→3,4,8,10,11,13 の 9点。

GOOD LUCK!

2018 『鳥の会議』 山下澄人 (河出文庫) 感想

収録作
『鳥の会議』(初出「文藝」2015年春号、2016年度三島由紀夫賞候補作)
『鳥のらくご』(初出「文藝」2015年秋号)


『鳥の会議』
 起伏あるわかりやすいストーリーではないが、山下澄人にしては錯綜具合はそこまででもなく、従って混乱しながら酩酊しながら読み終えるということは起きないだろう。読み終えればきっと、そっけなくてごつごつとしているけれども、だからこそ純度の高い哀切さが染み入るように感じられるはずだ。
 貧困層に属する篠田、神永、三上、長田の中学生四人を中心に展開される、理不尽あるいは無軌道な剥き出しの暴力の中に、健気でイノセントな友情が確かに読み取れる、ヒリヒリとする痛みを伴った好中篇である。私は北野武の映画のようだな、と思ったのだが(頻発する特に必要とも思えない突然の暴力などから彷彿とさせられた)、まあ感じ方は人それぞれだろう。
 
 小説の筋に触れるのはこの程度でよいと思うのでもう措くとして、特殊な語りに話を移す。
 二部構成の本作のうち、特に第一部の語りのありようは特筆に値するものだ。
 冒頭こそ通常の一人称だが、すぐに篠田たる〈ぼく〉がその場にいないはずの、神永と三上と長田の三人による会話の応酬場面に突入する。その後も語り手は〈ぼく〉でありながら、客観的に神永、三上、長田の三人を描写する。このくだりはのちに〈ぼく〉が二日後に聞いたと補足されるのだが、人から聞いた話をもとに想像したという態の再現度の薄い叙述ではなく、まさにその場にいた者でしか書けないような臨場感と視界をもってして綴られているのだ。特にそう強く思わせるのは小学生の男の子と猫についての描写が、人から聞いた話をもとにした想像にしては書かれ方が異様だからだ。引用しよう。
 
 
 小学三年か四年ぐらいの男の子が歩いている少し向こうを、二台の自転車が間をあけて神社からあらわれた。一台は二人乗りだ。乗っているのは坊主頭の中学生で、前を走る自転車に乗るのは赤いジャージの上下を着て、坊主頭で頭頂部にまで届きそうな剃り込みを入れている。神永だ。後ろの二人は制服で、これらも坊主頭だ。どちらも前をはだけて、運転するのは黄色いシャツ、後ろに乗るのは水色のとっくりを着ている。前が三上で後ろが長田だ。
 道の脇に白い猫がいて、それらを見ていた。三人は猫には気がついていない。男の子はしばらくしてその猫に気がつく。男の子は猫に声をかける。猫は何も言わない。それでも男の子が声をかけ続けていると、猫は
 「ニャ」
 と鳴いた。(pp.12-13)
 
 
 断っておくがこれは三人称ではなく、語り手は〈ぼく〉のままにして書かれている。神永、三上、長田の三人の描写もさることながら、改行した後の猫と男の子の書かれ方こそ驚きではないか。〈ぼく〉が二日後に三人から聞いた話として再現できるのは最初の一段落だけで、次の段落はもう〈ぼく〉の認識が一人称の範疇から飛び出しているとしか言いようがない。なぜなら猫は神永、三上、長田の三人を見ていたが、しかし三人は猫に気づいていないと書かれるのだから、後日三人が〈ぼく〉にそのことを話せるわけがない。そして追い越した男の子が猫と戯れたことも、その瞬間には既に三人は男の子を自転車で追い越しているので知り得るはずがないから〈ぼく〉に話せない。
 つまり〈ぼく〉という語り手は時空を超えている。〈ぼく〉の視界というカメラは自転車で走りゆく三人を追わずに猫をとらえると立ち止まって、そのフレームの中に男の子が遅れてやってくるところまで写しているということになる。
 この一連の描写は映画などのような映像媒体であれば案外違和感なくやれるのだろうが、三人がその存在に気づけなかった猫、そしてその猫は三人に気づいていてその目で見ていた、という三人の認識と猫の認識までは映像媒体でもってしても表現できないのではないか。小説だからこそできることかもしれないが、それにしても奇妙さは拭えない。
 こういった奇妙な描写は本作にいくらでも転がっているのだが、もう一つだけ引用したい。
 
 
 ヘリコプターの飛ぶ音がした。それはぼくらのいる神永の家の真上を飛んでいた。そこから青い屋根や赤い屋根や茶色い屋根や川が見えていた。いくつもある青い屋根のひとつがぼくたちのいる神永の家の屋根だ。そこにぼくたちはいる。そこでぼくたちは泣いている徳田の顔を思い浮かべている。(p.22)
 
  
 こちらの引用で起こっていることは、語り手〈ぼく〉がヘリコプターの視界を乗っ取ったとでも言うべき移動をなして、近隣を俯瞰するという描写である。ここでは聴覚がヘリコプターの存在をとらえていて、そのヘリコプターからどう〈見られている〉か、という像が〈ぼく〉の認識の中で展開されていると解せる。
 本作は通常の一人称における叙述と、引用した部分に顕著な、自由に視界を移動し時には猫に、時にはヘリコプターなどに〈ぼく〉が宿ってしまう異様な描写が入り乱れて進行していく。
 
 これを佐々木敦は『新しい小説のために』(2017、講談社)というアラン・ロブ=グリエが著した評論と同名の(※原題は『Pour un Nouveau Roman』)野心的な書籍の中で次のような仮説を述べる。曰く、西洋文学が日本に輸入される明治以前の、一人称と三人称とに人称が明確に分断される前の、日本語が持っていた未分化の〈わたし〉ではないか、と。そこでは〈わたし〉が自由自在に場面を語っていたのだ、と。
 考えてみれば私が本作の書かれ方を異様だと感じてしまうのは、一人称と三人称(と二人称)という制度が確立された近代文学の側面から見ているからなのだろう。
 特に日本の場合、自然主義文学は〈本物らしさ〉=〈リアル〉=〈リアリズム〉を小説という媒体でひたすら目指してきた。その際、一人称であれば、視点人物の視界はその人物の目に見えるものしか書いてはいけない、という根拠不明の制約が設けられてそれは現代にまで引き継がれてしまった。そうやって視界を狭めた方が〈リアル〉だという思い込みまで継承してしまったくらいだ。
 
 山下澄人がやろうとしていることは一人称の制約を壊すことだと思うのだが、しかしそのありようはかつての近代以前の未分化の語りを復古させたというのとは少々違って、殊に本作では《一人称の限りない拡張》をやろうとしているのではないかと思えてならない。そして一人称だ、三人称だ、と区分けする馬鹿馬鹿しさを見せつけているかのうようでもある。
 というのも長すぎて引用はさすがに控えるが、本作では空白の改行をしてから〈移人称〉らしき事態が起こって、もうこれは完全に三人称だろうという叙述が長く続く場面が散見されるのだが、それらは最後の方になって急に文中に〈ぼくは〉と出てくるのだ。そう、本作は全て、一人称で叙述されている。たとえどんなにこれは三人称だろうという部分が出てきても、語りの実権を握っているのはあくまでも〈ぼく〉なのだ。仮に〈見る〉側の主体が明示されていなくても、その奥に必ず〈ぼく〉が潜んでいる。これを〈新しいわたし〉と命名するよりかは、《一人称の限りない拡張》とした方が私にとってはしっくりとくる。
 

 『鳥のらくご』
 『鳥の会議』の続篇のような短篇だが、こちらはほとんどが会話文で成り立っている。しかし簡潔で質素ながら地の文もあるにはあるので、戯曲風の実験小説のようなものとして読んだ。この短篇は、特に序盤の方は〇〇が××に言った、というような話し手と聞き手が明かされないので誰が誰に話しているのか判然としない。
 中盤以降、老人となった長田が語り手〈ぼく〉の役を担っていて、『鳥の会議』の登場人物たちと話しているということがわかってくる。
 地の文に対し、会話文の話し手が「」の中で応答したり、また地の文も句読点が取り除かれたりと、独白の台詞かあるいはト書きめいた書き方が混在していく。言うなればなぜ、人間が発話した部分を「」などに入れて地の文と差別化するのか、区別するのか、そのルールの無意味さを訴えているのかもしれない。しかしながら似たようなことは谷崎潤一郎もやっていたことだし、『鳥の会議』と比べるとインパクトは弱い。
 
 
 『鳥の会議』についてだが、こんな小説が既に書かれて発表されてしまっているのだ。もう旧態依然とした制約付きの一人称小説は古いと見做されていくだろう。そういった意味では本作は創作を現にする実作者にとっては世にも恐ろしい小説として機能するのかもしれない。
 

2018 『寝ても覚めても』 柴崎友香 (河出文庫) 感想

 2010年度野間文芸新人賞受賞作。今年の2018年に濱口竜介監督作品として映画化されており、評価されているとの由。ただ私は今の所は映画は観ていないので、あくまで小説それだけを読んで思った事を書こうと思う。
 
 まずこれを最初から最後まで通してリアリズムの作物として読むべきかどうか考える必要がある、と通読して思った。
 というのも、日常の光景を詳細に書いていく作風は崩されていないので、たぶんこの点でリアリティーは確保されているように見えるから現実世界を書いた小説だと読んでしまうのも無理はないし、私も中盤まではそう読んでいた。しかし小説は何か特殊な断りがあろうとなかろうとフィクションであり、従ってフィクションの容れ物の中なのだから何が起こってもおかしくはない。読み手に強烈な一撃を加えようと企むなら、危険地帯に踏み込むこともしなければいけない場合が小説にはある。
 
 あらすじとしてはこうなる。社会人になりたての泉谷朝子は大阪で鳥居麦(トリイバクと読む)に出会い一目惚れして付き合うことになるがある日、麦が失踪。数年後、東京に移った朝子に麦と顔など外面がそっくりの丸子亮平が現れ、朝子は恋に落ちる。そこへ、なぜか話題の新人俳優として麦が映画やテレビの中に登場し、画面越しに麦と再会した朝子は動揺を隠せず、ついに麦に会いに行く。10年間に及ぶ朝子の恋物語、と言えば確かにそうなのだが、この小説はそんな一言で語ることができるような簡単な物ではない。
 
 採用された文体、文章のスタイルもかなり特殊だ。朝子の一人称の視点から語られる本作では、一人の人間が受け取れる五感の情報が可能な限り、良くも悪くも過剰なほどに書かれている。あたかも外部の情報の全てを人間がどのように受信し、どう認識するかを再現するかのような書きっぷりである。中でも突出しているのは視覚情報だ。外貌がそっくりの男二人をめぐるストーリーからも察せられる通り、見る/見られるという視覚の機能が本作のテーマの一つであることは明白だが、これほどの緻密さで視覚情報が描写されている小説にはなかなかお目にかかれない。
 ワンシーンの描写が凄まじく緻密である代償としてシーンとシーンの間の時間は結構飛ぶのだが、その場面転換の間に独立した二、三行程度、時には一行の文章で成り立つ小節が頻繁にカットインされるスタイルなどから本作は、例えば横光利一のカメラアイの小説として有名な『蠅』が想起される。
 五感、特に視覚の描写が凄いということを書いたが、その一方で特に序盤は人間の内面、つまり心理の叙述が極端に少ない。断定的な過去形で五感が得る情報をざくざく書いて進む文体には緊張感が漲り、静謐ささえ漂う。
 これは本当に凄いことで、たいていの小説は光景の描写もするにはするが、力を入れるのは専ら人間の心理の解剖になりがちとなるところ、本作では全く逆の書かれ方がなされている。情景描写というのともまた違う。次々と書き連ねられていく外部の情報の夥しい集積は、まるで撮影された映像を忠実に文字で再現していくかのようなのだ。そのシーンの〈場所〉を何から何まで把握していなければこういう書き方はできない、そしてたいていの小説はそれを怠って心理を書くことでお茶を濁していることを思えば、本作は横光利一もびっくりの究極のカメラアイ小説ということになる。
 
 視覚というテーマは作中の小道具にもよく反映されていて、映画、テレビドラマ、演劇などがよく出てくるのだが、朝子はそれらをただ見ているだけだ。傍観者のようであり、受動的でさえある。
 初めて鳥居麦と出会った時の一目惚れの時ですら、朝子の内面は大して書かれない。それは麦が失踪した後に亮平と出会った時もそうで、細かく描写されるのは外面的特徴だけで朝子の内面はほとんど書かれない。心理を極力書かないで小説を書く困難はさきに述べたが、その技巧は技巧だけで終わらずにある効果をも齎している。叙述が自己の五感には鋭敏な代わりに、その叙述の対象が自己の内面、自己の心理にすら向かわないのなら、もちろん他者に向かうことなどないのだとも言えて、あくまで語り手は朝子だから朝子の、他者の内面や性格や人格などを蔑ろにする傲慢さが表現されている。だから麦と瓜二つの亮平とも男女の仲になれたようにも読み取れるし、この点は解説の豊崎由美の朝子はエゴイストであるという意見に同意する。
 
 五感、特に視覚頼りで内面がほとんど書かれない朝子に変化が生じるのが、麦とテレビ画面越しの再会をした時だ。「動揺もときめきも似たようなものだと思った」(p.217)という名文が出てくるのだが、この辺りから淡白ではあるものの、心理の吐露が多くなってくる感がある。と同時に急速に現実感がなくなっていくようにも思える。
 東京で知り合った人々が俳優となった麦を〈テレビの人〉と呼ぶように多くの人にとって麦は、ただ見るだけの存在と認識されている。小説というフィクションの中の、さらにフィクション性が高いテレビの中だけの人物、これは考えようによっては麦は実在するかどうかも怪しいことを示唆していると私は読んだ。
 
 あらすじを追いかけると、朝子はとある番組の撮影現場の近くまで押しかけて麦に会おうと試みて失敗するのだが諦めずに再度、麦に会おうとし、そこで初めて麦に対し、誰かに対し、受動的ではなく能動的なアクションを起こす。それが召喚の合図であるかのように麦が朝子の前に現れる。ここからが解説の豊崎由美やら紹介文やらでやたら喧伝されている問題のラスト30ページの部分だ。この終盤の部分、大半がリアリズムで書かれた物ではない。
 地に足がついたしっかりとした性格の亮平と、どこかふわふわして謎めいた幻想的とも言える存在の麦という対立する二人の男。場所も大阪/東京、過去/現在、見る/見られる、テレビ画面の中/外、その他、この顔の似通った二人の男をめぐる本作には二項対立が多く読み取れる。そこから何が言えるかというと、麦といる時が夢のような非現実であって、亮平と過ごした時間こそ覚めた現実だったのではないかということだ。リアリティーある筆致が見事な本作で、麦だけがあまりにも現実感のない人物として提示されているからだ。タイトルの『寝ても覚めても』という言葉を本来の意味から離れてあえて分解して解釈すると、寝ていて見る夢の中でも、覚めて意識が覚醒した現実でも、同じ顔をした男と恋していることを指している、と言ったら強引だろうか。
 よしんば麦が現実世界に実在する人物だったとして、存在できていたのは過去だけだったと思うのだ。というのも、朝子の一人称による〈語りの時間の流れ〉は直線的で回想すらなく、絶対に過去に後戻りなどしない。直線的な〈語りの時間の流れ〉の維持はこの危ういテキストを小説として成り立たせる重要な要素で、この時間軸さえも混沌とさせて制約をとってしまうと書き手のご都合主義として捉えれて全く評価できない代物になってしまうので、言わば本作の生命線なのだ。
 こうした事情を抱えて、あくまで進んでいく〈語りの時間の流れ〉の中で、麦に会おうとし、会えてしまったこのラスト30ページはだから、夢まぼろしのように儚く、同時に何だか怖くもなるような不安感を煽る筆致に意図的に変化されている。麦と一緒になったまま終幕するのもまた一つの綺麗な終わり方だと思うのだが、〈語りの時間の流れ〉をさらに進ませる選択がとられた。この選択は書く側としては茨の道だったろう。
 「亮平じゃないやん! この人」(p.300)と麦に対して放つ決定的な、そしてあらゆる意味を含んだ台詞の意味や意図を的確に言い表すのはかなり難しいが(中上健次の『地の果て 至上の時』の秋幸が龍造の死体に対して言い放つ「違う」並に難しい)、この認識の転換がなければ、麦を見捨てなければ、直線的な〈語りの時間の流れ〉を維持できないし、亮平の方を上位に持ってこなければ朝子を現実世界に帰還させることができない。ギリギリのバランスではあるが、評価できる小説として完結させてみせた柴崎友香の力量をこそ、刮目すべきだと思うのだ。

2018 舟橋聖一顕彰青年文学賞・佳作受賞の報告

 毎日新聞さん、朝日新聞さん、中日新聞さん等々で既に報道されているのでもう書いても大丈夫ですね。
 この度、第30回舟橋聖一顕彰青年文学賞・佳作を『母捨て』で受賞しました。賞金は10万円です。この公募の青年文学賞は年齢制限があって、応募資格があるのは18歳~30歳の人だけです。私の場合、今年度がラストチャンスだったので受賞できて大変嬉しいです。

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 さて、嬉しいこと驚いたことが色々あったのでちょっとだけ書きますね。
 
 ・受賞内定の電話があったのは約一ヶ月前でした。正式発表が昨日(19日)だったので、それまで気が気でなかったのですが、本決まりした時の嬉しさは待った分だけ大きかったです。
 ・Yahooニュースに載ったことについては、純粋にびっくりしました(毎日新聞さんの記事転載という形でした)。
 ・意外と大きく報道してもらったからか、数年来付き合いのなかった友人からもお祝いの電話やメッセージがあったので、これは嬉しかったです。
 
 他にもありますが、これくらいで。
 
 今後の抱負としましては、三年前の某学内文芸コンクールや今回の受賞でも佳作だったので、次に何らかの賞をいただける時には今度こそ大賞をとりたいと、まあそんなところです。
 それはさておき、来月はじめに執り行われる受賞式では、選考委員の佐藤洋二郎先生、藤沢周先生、増田みず子先生、富岡幸一郎先生にお会いできることを楽しみにしております。
 この場を借りて改めて、本文学賞の関係者の皆様に対し厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。

2018 『明るい夜』 黒川創 (文春文庫) 感想

 2005年度三島由紀夫賞候補作。文庫になってのちの2009年、京都の書店員で決める京都水無月大賞を受賞。
 後者の方は聞き覚えのない賞だが京都の書店員が投票で決めるらしく、関西版本屋大賞のようなものらしい。そうして本作はそれに選ばれるのも尤もな小説ではある。最初から最後まで舞台は京都なのだから。それでいて、古刹名刹の類はほぼ出てこない。象徴的に作中で使われるのは賀茂川と高野川の合流地点である鴨川の三角公園などであって、観光都市の京都ではなく、また歴史の教科書に載るような京都でもない、ありふれた庶民の生活の場としての京都が描かれている。この地に暮らしたことのない私でも受け取れるくらいのセンチメンタリズムが生活の場としての京都を背景に展開されているので、雰囲気を味わう小説として読んでも構わないだろうが、まともに読解をしようとすると捉えづらい小説だという事がわかる。やはり黒川創だ、一筋縄ではいかない。
 
 本作の分析の鍵となるのは〈思いだす〉という行為だ。モラトリアムは副次的なもののように感じられる。〈思いだす〉には立ち止まらなければならない、あるいは遡らなければならない。そしてまた、上にて鴨川が象徴的に使われていると書いたが、鴨川に限らず他の河川や、あるいは銭湯が大事な場面で使われるように、〈水〉もまた重要な意味合いを持つようだ。
 
 本作の大部分は〈わたし〉こと朋子の一人称で叙述される。
 朋子は風呂なしのぼろアパートに住んでおり、大学卒業後はアルバイトで生計を立てている。アルバイト先のファミレスの同僚であり友人でもあるイズミちゃんは、正社員時代に深刻な不眠症となり、職を辞した。そして朋子の彼氏である工藤くんは、小説を書きたいと本屋の店員を辞めたのだが、一向に小説を書こうとせずに、鴨川沿いで、あるいは朋子の部屋で、脳天気にぶらぶらしている。
 工藤くんはなぜ仕事を辞めたのかわからないくらいに小説を書くことに自信を持てていない。朋子やイズミちゃんに至っては京都の市街地に意地でも居ようとする理由は、単に実家に帰りたくないというくらいの弱いものしかない。
 こう書いていくとモラトリアムを延長したものの、行き詰まった若者達の葛藤でも書かれていそうな気がしてくるが、実際に読んでみるとそうではない。というか、人間そのものの動向は本作に限ってはそれほど重要ではない。彼らが前にも後ろにも動かないで京都に居続けることの方が重要だ。なぜというに、現在の京都を見る視線が保てるからだ。現在の京都を見る役目は、小説を書こうとしている工藤くんの目が主に担当しているように思えるが、朋子やイズミちゃんの視線も欠かせない。
 
 本作の冒頭部と第一章は、時間軸で言えば本作最終章の続きという形をとる。銭湯の湯船の中にいる朋子がこれまでを〈思いだ〉している体をとっているのだが、漫然と読んでいると気づけないほどさりげない。本作では時間の連続性が価値を持たない。どこにどのエピソードが挿れられても違和感なく読めてしまう。
 始まりが銭湯の中というのは示唆的だ。湯船のお湯は流れを止められた温水のたまり場と言えるだろう。この場面ではお湯と同じく、時が止まっていると言ってよい。朋子とともに橋の上から三角公園を眺めるイズミちゃんが苦々しく京都北部の山奥の実家のことを〈思いだす〉のも、つまりは鴨川の流れを見下ろしながら橋の上で静止している瞬間だったりする。
 その他、これは意図的だと思うのだが同じぼろアパートに住む老爺や、大家の老婆など、高齢の登場人物が多い。彼らに未来という時間はあまり残されていない。大家の老婆が自身の昔の日々を、昔の京都を〈思いだす〉場所は、朋子とともに浸かっている流れの止まった銭湯の湯船の中だ。老爺がかつて友禅染をやっていたことを〈思いだす〉のも、鴨川の川沿いを朋子と上流方向へ歩んでいる場面だ。そして小説全体の進行として、場所は京都北部へと移っていくのだが、それは水の流れとは正反対への歩みである。水の流れと正反対の山奥にあるのは、今にも忘れ去られそうな、人々の記憶から消えてしまいそうな集落と、とりたてて特別でも有名でもない火祭りだ。きっと誰かが見に行かなければその集落も火祭りも〈思いだ〉されなくなってしまうだろう。
 このように作中に出てくる水はまさに過去を、記憶を〈思いだす〉呼び水としてある。
 
 人間が主役ならばどうも停滞感を覚える、後ろ向きで話も散漫な、かったるい小説になるが、主役が人間ではなく京都だったらどうだろうか。〈思いだす〉京都は人それぞれ、世代や性別もバラバラなだけに却って豊富なバリエーションを持つ。各エピソードが一本に繋がらないもどかしさを感じるのは登場する人間を軸に考えるからで、各エピソードの場所を軸に考えてみると、京都という街が共通点となっており、途端にはっきりとした本作の狙いがわかってくる。
 一つの街を多角的な視線からとらえて浮き彫りすること、それこそが本作の主眼だ。この小説を読み終えて立ち昇ってくるのは重層的に描かれた、多彩な表情を持つ京都という街そのものなのだ。
 

2018 予想 第20回 京都ジャンプステークス(J・GIII)

 京都障害コースは完全に前有利。最後の直線も非常に短く、テンから前に行った馬が有利となる。スタミナもさることながら飛越の能力も必要になってくる、というか障害レース全般に言えることだが落馬せずに完走できる馬を選ばなくてはいけない。当たり前の話ではあるのだがこれが中々難しい。

 

◎4マイネルプロンプト
 色々悩んだが、本命はこの馬に。危なげない飛越というのもあるし、障害レースで4勝している実績はこの手薄のメンツの中では目立つ方だ。足りないのは障害重賞実績だけだが、しかし前走中山の清秋ジャンプSの2着に6馬身突き放した勝ち方から本格化したとみて本命。
 あとはハナを叩いて飛ばすであろうタマモプラネットをどうやって、そしてどこで捕まえるかだ。まあ、仮に届かなくて逃げ切りを許しても馬券内にはいるだろう。なお、落馬の経験はない。

 

◯2ミヤジタイガ
 障害レース3勝、障害重賞で掲示板内の成績もあり、またこのレースと同舞台だった前走の京都3170mの障害オープンでは5馬身差の圧勝。昨年の京都ジャンプSの時のような落馬さえなければ、コース相性と勢い、先行できる脚質などなど魅力多い。
▲3タマモプラネット
 前走の最終障害のあのまさかの落馬が嫌で単穴にしたが、長い障害戦のキャリアの中で落馬は前走の時のもの一回であるし、今回はこの馬に匹敵するような実績ある馬はいない。よって、いつも通り離した逃げの手に出るだろうが前走のようにバテバテにはなるまい。まともにやれば勝ち負け。

 

△1ゼンノトライブ
 ややポジションは後ろめの馬だけに勝ち味に遅いのだが、それゆえに3着食い込みに注意。小倉サマージャンプで4着しているのだから馬券に絡んできてもおかしくはない。
△5ツジスーパーサクラ
 障害レースで2勝しているだけだが、このメンツならばおさえる必要が出てくる。
△7タマモワカサマ
 ここと同舞台の牛若丸ジャンプS(障害OP)で2着しているし、前走の小倉サマージャンプでは5着と好走。意外と侮れない。
△8エルゼロ
 取り立てて強調材料がないが、障害OPで3着が3回あることから無欲の着拾いを警戒。

 

買い目 3連複フォーメーション 9点
4-2,3-1,2,3,5,7,8 
GOOD LUCK!