2018 『鳥の会議』 山下澄人 (河出文庫) 感想

収録作
『鳥の会議』(初出「文藝」2015年春号、2016年度三島由紀夫賞候補作)
『鳥のらくご』(初出「文藝」2015年秋号)


『鳥の会議』
 起伏あるわかりやすいストーリーではないが、山下澄人にしては錯綜具合はそこまででもなく、従って混乱しながら酩酊しながら読み終えるということは起きないだろう。読み終えればきっと、そっけなくてごつごつとしているけれども、だからこそ純度の高い哀切さが染み入るように感じられるはずだ。
 貧困層に属する篠田、神永、三上、長田の中学生四人を中心に展開される、理不尽あるいは無軌道な剥き出しの暴力の中に、健気でイノセントな友情が確かに読み取れる、ヒリヒリとする痛みを伴った好中篇である。私は北野武の映画のようだな、と思ったのだが(頻発する特に必要とも思えない突然の暴力などから彷彿とさせられた)、まあ感じ方は人それぞれだろう。
 
 小説の筋に触れるのはこの程度でよいと思うのでもう措くとして、特殊な語りに話を移す。
 二部構成の本作のうち、特に第一部の語りのありようは特筆に値するものだ。
 冒頭こそ通常の一人称だが、すぐに篠田たる〈ぼく〉がその場にいないはずの、神永と三上と長田の三人による会話の応酬場面に突入する。その後も語り手は〈ぼく〉でありながら、客観的に神永、三上、長田の三人を描写する。このくだりはのちに〈ぼく〉が二日後に聞いたと補足されるのだが、人から聞いた話をもとに想像したという態の再現度の薄い叙述ではなく、まさにその場にいた者でしか書けないような臨場感と視界をもってして綴られているのだ。特にそう強く思わせるのは小学生の男の子と猫についての描写が、人から聞いた話をもとにした想像にしては書かれ方が異様だからだ。引用しよう。
 
 
 小学三年か四年ぐらいの男の子が歩いている少し向こうを、二台の自転車が間をあけて神社からあらわれた。一台は二人乗りだ。乗っているのは坊主頭の中学生で、前を走る自転車に乗るのは赤いジャージの上下を着て、坊主頭で頭頂部にまで届きそうな剃り込みを入れている。神永だ。後ろの二人は制服で、これらも坊主頭だ。どちらも前をはだけて、運転するのは黄色いシャツ、後ろに乗るのは水色のとっくりを着ている。前が三上で後ろが長田だ。
 道の脇に白い猫がいて、それらを見ていた。三人は猫には気がついていない。男の子はしばらくしてその猫に気がつく。男の子は猫に声をかける。猫は何も言わない。それでも男の子が声をかけ続けていると、猫は
 「ニャ」
 と鳴いた。(pp.12-13)
 
 
 断っておくがこれは三人称ではなく、語り手は〈ぼく〉のままにして書かれている。神永、三上、長田の三人の描写もさることながら、改行した後の猫と男の子の書かれ方こそ驚きではないか。〈ぼく〉が二日後に三人から聞いた話として再現できるのは最初の一段落だけで、次の段落はもう〈ぼく〉の認識が一人称の範疇から飛び出しているとしか言いようがない。なぜなら猫は神永、三上、長田の三人を見ていたが、しかし三人は猫に気づいていないと書かれるのだから、後日三人が〈ぼく〉にそのことを話せるわけがない。そして追い越した男の子が猫と戯れたことも、その瞬間には既に三人は男の子を自転車で追い越しているので知り得るはずがないから〈ぼく〉に話せない。
 つまり〈ぼく〉という語り手は時空を超えている。〈ぼく〉の視界というカメラは自転車で走りゆく三人を追わずに猫をとらえると立ち止まって、そのフレームの中に男の子が遅れてやってくるところまで写しているということになる。
 この一連の描写は映画などのような映像媒体であれば案外違和感なくやれるのだろうが、三人がその存在に気づけなかった猫、そしてその猫は三人に気づいていてその目で見ていた、という三人の認識と猫の認識までは映像媒体でもってしても表現できないのではないか。小説だからこそできることかもしれないが、それにしても奇妙さは拭えない。
 こういった奇妙な描写は本作にいくらでも転がっているのだが、もう一つだけ引用したい。
 
 
 ヘリコプターの飛ぶ音がした。それはぼくらのいる神永の家の真上を飛んでいた。そこから青い屋根や赤い屋根や茶色い屋根や川が見えていた。いくつもある青い屋根のひとつがぼくたちのいる神永の家の屋根だ。そこにぼくたちはいる。そこでぼくたちは泣いている徳田の顔を思い浮かべている。(p.22)
 
  
 こちらの引用で起こっていることは、語り手〈ぼく〉がヘリコプターの視界を乗っ取ったとでも言うべき移動をなして、近隣を俯瞰するという描写である。ここでは聴覚がヘリコプターの存在をとらえていて、そのヘリコプターからどう〈見られている〉か、という像が〈ぼく〉の認識の中で展開されていると解せる。
 本作は通常の一人称における叙述と、引用した部分に顕著な、自由に視界を移動し時には猫に、時にはヘリコプターなどに〈ぼく〉が宿ってしまう異様な描写が入り乱れて進行していく。
 
 これを佐々木敦は『新しい小説のために』(2017、講談社)というアラン・ロブ=グリエが著した評論と同名の(※原題は『Pour un Nouveau Roman』)野心的な書籍の中で次のような仮説を述べる。曰く、西洋文学が日本に輸入される明治以前の、一人称と三人称とに人称が明確に分断される前の、日本語が持っていた未分化の〈わたし〉ではないか、と。そこでは〈わたし〉が自由自在に場面を語っていたのだ、と。
 考えてみれば私が本作の書かれ方を異様だと感じてしまうのは、一人称と三人称(と二人称)という制度が確立された近代文学の側面から見ているからなのだろう。
 特に日本の場合、自然主義文学は〈本物らしさ〉=〈リアル〉=〈リアリズム〉を小説という媒体でひたすら目指してきた。その際、一人称であれば、視点人物の視界はその人物の目に見えるものしか書いてはいけない、という根拠不明の制約が設けられてそれは現代にまで引き継がれてしまった。そうやって視界を狭めた方が〈リアル〉だという思い込みまで継承してしまったくらいだ。
 
 山下澄人がやろうとしていることは一人称の制約を壊すことだと思うのだが、しかしそのありようはかつての近代以前の未分化の語りを復古させたというのとは少々違って、殊に本作では《一人称の限りない拡張》をやろうとしているのではないかと思えてならない。そして一人称だ、三人称だ、と区分けする馬鹿馬鹿しさを見せつけているかのうようでもある。
 というのも長すぎて引用はさすがに控えるが、本作では空白の改行をしてから〈移人称〉らしき事態が起こって、もうこれは完全に三人称だろうという叙述が長く続く場面が散見されるのだが、それらは最後の方になって急に文中に〈ぼくは〉と出てくるのだ。そう、本作は全て、一人称で叙述されている。たとえどんなにこれは三人称だろうという部分が出てきても、語りの実権を握っているのはあくまでも〈ぼく〉なのだ。仮に〈見る〉側の主体が明示されていなくても、その奥に必ず〈ぼく〉が潜んでいる。これを〈新しいわたし〉と命名するよりかは、《一人称の限りない拡張》とした方が私にとってはしっくりとくる。
 

 『鳥のらくご』
 『鳥の会議』の続篇のような短篇だが、こちらはほとんどが会話文で成り立っている。しかし簡潔で質素ながら地の文もあるにはあるので、戯曲風の実験小説のようなものとして読んだ。この短篇は、特に序盤の方は〇〇が××に言った、というような話し手と聞き手が明かされないので誰が誰に話しているのか判然としない。
 中盤以降、老人となった長田が語り手〈ぼく〉の役を担っていて、『鳥の会議』の登場人物たちと話しているということがわかってくる。
 地の文に対し、会話文の話し手が「」の中で応答したり、また地の文も句読点が取り除かれたりと、独白の台詞かあるいはト書きめいた書き方が混在していく。言うなればなぜ、人間が発話した部分を「」などに入れて地の文と差別化するのか、区別するのか、そのルールの無意味さを訴えているのかもしれない。しかしながら似たようなことは谷崎潤一郎もやっていたことだし、『鳥の会議』と比べるとインパクトは弱い。
 
 
 『鳥の会議』についてだが、こんな小説が既に書かれて発表されてしまっているのだ。もう旧態依然とした制約付きの一人称小説は古いと見做されていくだろう。そういった意味では本作は創作を現にする実作者にとっては世にも恐ろしい小説として機能するのかもしれない。
 

2018 『寝ても覚めても』 柴崎友香 (河出文庫) 感想

 2010年度野間文芸新人賞受賞作。今年の2018年に濱口竜介監督作品として映画化されており、評価されているとの由。ただ私は今の所は映画は観ていないので、あくまで小説それだけを読んで思った事を書こうと思う。
 
 まずこれを最初から最後まで通してリアリズムの作物として読むべきかどうか考える必要がある、と通読して思った。
 というのも、日常の光景を詳細に書いていく作風は崩されていないので、たぶんこの点でリアリティーは確保されているように見えるから現実世界を書いた小説だと読んでしまうのも無理はないし、私も中盤まではそう読んでいた。しかし小説は何か特殊な断りがあろうとなかろうとフィクションであり、従ってフィクションの容れ物の中なのだから何が起こってもおかしくはない。読み手に強烈な一撃を加えようと企むなら、危険地帯に踏み込むこともしなければいけない場合が小説にはある。
 
 あらすじとしてはこうなる。社会人になりたての泉谷朝子は大阪で鳥居麦(トリイバクと読む)に出会い一目惚れして付き合うことになるがある日、麦が失踪。数年後、東京に移った朝子に麦と顔など外面がそっくりの丸子亮平が現れ、朝子は恋に落ちる。そこへ、なぜか話題の新人俳優として麦が映画やテレビの中に登場し、画面越しに麦と再会した朝子は動揺を隠せず、ついに麦に会いに行く。10年間に及ぶ朝子の恋物語、と言えば確かにそうなのだが、この小説はそんな一言で語ることができるような簡単な物ではない。
 
 採用された文体、文章のスタイルもかなり特殊だ。朝子の一人称の視点から語られる本作では、一人の人間が受け取れる五感の情報が可能な限り、良くも悪くも過剰なほどに書かれている。あたかも外部の情報の全てを人間がどのように受信し、どう認識するかを再現するかのような書きっぷりである。中でも突出しているのは視覚情報だ。外貌がそっくりの男二人をめぐるストーリーからも察せられる通り、見る/見られるという視覚の機能が本作のテーマの一つであることは明白だが、これほどの緻密さで視覚情報が描写されている小説にはなかなかお目にかかれない。
 ワンシーンの描写が凄まじく緻密である代償としてシーンとシーンの間の時間は結構飛ぶのだが、その場面転換の間に独立した二、三行程度、時には一行の文章で成り立つ小節が頻繁にカットインされるスタイルなどから本作は、例えば横光利一のカメラアイの小説として有名な『蠅』が想起される。
 五感、特に視覚の描写が凄いということを書いたが、その一方で特に序盤は人間の内面、つまり心理の叙述が極端に少ない。断定的な過去形で五感が得る情報をざくざく書いて進む文体には緊張感が漲り、静謐ささえ漂う。
 これは本当に凄いことで、たいていの小説は光景の描写もするにはするが、力を入れるのは専ら人間の心理の解剖になりがちとなるところ、本作では全く逆の書かれ方がなされている。情景描写というのともまた違う。次々と書き連ねられていく外部の情報の夥しい集積は、まるで撮影された映像を忠実に文字で再現していくかのようなのだ。そのシーンの〈場所〉を何から何まで把握していなければこういう書き方はできない、そしてたいていの小説はそれを怠って心理を書くことでお茶を濁していることを思えば、本作は横光利一もびっくりの究極のカメラアイ小説ということになる。
 
 視覚というテーマは作中の小道具にもよく反映されていて、映画、テレビドラマ、演劇などがよく出てくるのだが、朝子はそれらをただ見ているだけだ。傍観者のようであり、受動的でさえある。
 初めて鳥居麦と出会った時の一目惚れの時ですら、朝子の内面は大して書かれない。それは麦が失踪した後に亮平と出会った時もそうで、細かく描写されるのは外面的特徴だけで朝子の内面はほとんど書かれない。心理を極力書かないで小説を書く困難はさきに述べたが、その技巧は技巧だけで終わらずにある効果をも齎している。叙述が自己の五感には鋭敏な代わりに、その叙述の対象が自己の内面、自己の心理にすら向かわないのなら、もちろん他者に向かうことなどないのだとも言えて、あくまで語り手は朝子だから朝子の、他者の内面や性格や人格などを蔑ろにする傲慢さが表現されている。だから麦と瓜二つの亮平とも男女の仲になれたようにも読み取れるし、この点は解説の豊崎由美の朝子はエゴイストであるという意見に同意する。
 
 五感、特に視覚頼りで内面がほとんど書かれない朝子に変化が生じるのが、麦とテレビ画面越しの再会をした時だ。「動揺もときめきも似たようなものだと思った」(p.217)という名文が出てくるのだが、この辺りから淡白ではあるものの、心理の吐露が多くなってくる感がある。と同時に急速に現実感がなくなっていくようにも思える。
 東京で知り合った人々が俳優となった麦を〈テレビの人〉と呼ぶように多くの人にとって麦は、ただ見るだけの存在と認識されている。小説というフィクションの中の、さらにフィクション性が高いテレビの中だけの人物、これは考えようによっては麦は実在するかどうかも怪しいことを示唆していると私は読んだ。
 
 あらすじを追いかけると、朝子はとある番組の撮影現場の近くまで押しかけて麦に会おうと試みて失敗するのだが諦めずに再度、麦に会おうとし、そこで初めて麦に対し、誰かに対し、受動的ではなく能動的なアクションを起こす。それが召喚の合図であるかのように麦が朝子の前に現れる。ここからが解説の豊崎由美やら紹介文やらでやたら喧伝されている問題のラスト30ページの部分だ。この終盤の部分、大半がリアリズムで書かれた物ではない。
 地に足がついたしっかりとした性格の亮平と、どこかふわふわして謎めいた幻想的とも言える存在の麦という対立する二人の男。場所も大阪/東京、過去/現在、見る/見られる、テレビ画面の中/外、その他、この顔の似通った二人の男をめぐる本作には二項対立が多く読み取れる。そこから何が言えるかというと、麦といる時が夢のような非現実であって、亮平と過ごした時間こそ覚めた現実だったのではないかということだ。リアリティーある筆致が見事な本作で、麦だけがあまりにも現実感のない人物として提示されているからだ。タイトルの『寝ても覚めても』という言葉を本来の意味から離れてあえて分解して解釈すると、寝ていて見る夢の中でも、覚めて意識が覚醒した現実でも、同じ顔をした男と恋していることを指している、と言ったら強引だろうか。
 よしんば麦が現実世界に実在する人物だったとして、存在できていたのは過去だけだったと思うのだ。というのも、朝子の一人称による〈語りの時間の流れ〉は直線的で回想すらなく、絶対に過去に後戻りなどしない。直線的な〈語りの時間の流れ〉の維持はこの危ういテキストを小説として成り立たせる重要な要素で、この時間軸さえも混沌とさせて制約をとってしまうと書き手のご都合主義として捉えれて全く評価できない代物になってしまうので、言わば本作の生命線なのだ。
 こうした事情を抱えて、あくまで進んでいく〈語りの時間の流れ〉の中で、麦に会おうとし、会えてしまったこのラスト30ページはだから、夢まぼろしのように儚く、同時に何だか怖くもなるような不安感を煽る筆致に意図的に変化されている。麦と一緒になったまま終幕するのもまた一つの綺麗な終わり方だと思うのだが、〈語りの時間の流れ〉をさらに進ませる選択がとられた。この選択は書く側としては茨の道だったろう。
 「亮平じゃないやん! この人」(p.300)と麦に対して放つ決定的な、そしてあらゆる意味を含んだ台詞の意味や意図を的確に言い表すのはかなり難しいが(中上健次の『地の果て 至上の時』の秋幸が龍造の死体に対して言い放つ「違う」並に難しい)、この認識の転換がなければ、麦を見捨てなければ、直線的な〈語りの時間の流れ〉を維持できないし、亮平の方を上位に持ってこなければ朝子を現実世界に帰還させることができない。ギリギリのバランスではあるが、評価できる小説として完結させてみせた柴崎友香の力量をこそ、刮目すべきだと思うのだ。

2018 『明るい夜』 黒川創 (文春文庫) 感想

 2005年度三島由紀夫賞候補作。文庫になってのちの2009年、京都の書店員で決める京都水無月大賞を受賞。
 後者の方は聞き覚えのない賞だが京都の書店員が投票で決めるらしく、関西版本屋大賞のようなものらしい。そうして本作はそれに選ばれるのも尤もな小説ではある。最初から最後まで舞台は京都なのだから。それでいて、古刹名刹の類はほぼ出てこない。象徴的に作中で使われるのは賀茂川と高野川の合流地点である鴨川の三角公園などであって、観光都市の京都ではなく、また歴史の教科書に載るような京都でもない、ありふれた庶民の生活の場としての京都が描かれている。この地に暮らしたことのない私でも受け取れるくらいのセンチメンタリズムが生活の場としての京都を背景に展開されているので、雰囲気を味わう小説として読んでも構わないだろうが、まともに読解をしようとすると捉えづらい小説だという事がわかる。やはり黒川創だ、一筋縄ではいかない。
 
 本作の分析の鍵となるのは〈思いだす〉という行為だ。モラトリアムは副次的なもののように感じられる。〈思いだす〉には立ち止まらなければならない、あるいは遡らなければならない。そしてまた、上にて鴨川が象徴的に使われていると書いたが、鴨川に限らず他の河川や、あるいは銭湯が大事な場面で使われるように、〈水〉もまた重要な意味合いを持つようだ。
 
 本作の大部分は〈わたし〉こと朋子の一人称で叙述される。
 朋子は風呂なしのぼろアパートに住んでおり、大学卒業後はアルバイトで生計を立てている。アルバイト先のファミレスの同僚であり友人でもあるイズミちゃんは、正社員時代に深刻な不眠症となり、職を辞した。そして朋子の彼氏である工藤くんは、小説を書きたいと本屋の店員を辞めたのだが、一向に小説を書こうとせずに、鴨川沿いで、あるいは朋子の部屋で、脳天気にぶらぶらしている。
 工藤くんはなぜ仕事を辞めたのかわからないくらいに小説を書くことに自信を持てていない。朋子やイズミちゃんに至っては京都の市街地に意地でも居ようとする理由は、単に実家に帰りたくないというくらいの弱いものしかない。
 こう書いていくとモラトリアムを延長したものの、行き詰まった若者達の葛藤でも書かれていそうな気がしてくるが、実際に読んでみるとそうではない。というか、人間そのものの動向は本作に限ってはそれほど重要ではない。彼らが前にも後ろにも動かないで京都に居続けることの方が重要だ。なぜというに、現在の京都を見る視線が保てるからだ。現在の京都を見る役目は、小説を書こうとしている工藤くんの目が主に担当しているように思えるが、朋子やイズミちゃんの視線も欠かせない。
 
 本作の冒頭部と第一章は、時間軸で言えば本作最終章の続きという形をとる。銭湯の湯船の中にいる朋子がこれまでを〈思いだ〉している体をとっているのだが、漫然と読んでいると気づけないほどさりげない。本作では時間の連続性が価値を持たない。どこにどのエピソードが挿れられても違和感なく読めてしまう。
 始まりが銭湯の中というのは示唆的だ。湯船のお湯は流れを止められた温水のたまり場と言えるだろう。この場面ではお湯と同じく、時が止まっていると言ってよい。朋子とともに橋の上から三角公園を眺めるイズミちゃんが苦々しく京都北部の山奥の実家のことを〈思いだす〉のも、つまりは鴨川の流れを見下ろしながら橋の上で静止している瞬間だったりする。
 その他、これは意図的だと思うのだが同じぼろアパートに住む老爺や、大家の老婆など、高齢の登場人物が多い。彼らに未来という時間はあまり残されていない。大家の老婆が自身の昔の日々を、昔の京都を〈思いだす〉場所は、朋子とともに浸かっている流れの止まった銭湯の湯船の中だ。老爺がかつて友禅染をやっていたことを〈思いだす〉のも、鴨川の川沿いを朋子と上流方向へ歩んでいる場面だ。そして小説全体の進行として、場所は京都北部へと移っていくのだが、それは水の流れとは正反対への歩みである。水の流れと正反対の山奥にあるのは、今にも忘れ去られそうな、人々の記憶から消えてしまいそうな集落と、とりたてて特別でも有名でもない火祭りだ。きっと誰かが見に行かなければその集落も火祭りも〈思いだ〉されなくなってしまうだろう。
 このように作中に出てくる水はまさに過去を、記憶を〈思いだす〉呼び水としてある。
 
 人間が主役ならばどうも停滞感を覚える、後ろ向きで話も散漫な、かったるい小説になるが、主役が人間ではなく京都だったらどうだろうか。〈思いだす〉京都は人それぞれ、世代や性別もバラバラなだけに却って豊富なバリエーションを持つ。各エピソードが一本に繋がらないもどかしさを感じるのは登場する人間を軸に考えるからで、各エピソードの場所を軸に考えてみると、京都という街が共通点となっており、途端にはっきりとした本作の狙いがわかってくる。
 一つの街を多角的な視線からとらえて浮き彫りすること、それこそが本作の主眼だ。この小説を読み終えて立ち昇ってくるのは重層的に描かれた、多彩な表情を持つ京都という街そのものなのだ。
 

2018 『また会う日まで』柴崎友香(河出文庫) 感想

 2006年度三島由紀夫賞候補作。
 生まれ育った大阪に住み続け会社員をしている二十代後半の仁藤有麻(読みはユマ)が主人公。今は東京に上京しているが、かつて大阪の高校で同級生だった友人達と会うために一週間の休暇をわざわざとって遊びに行く。その七日間を繊細なタッチで描写していく。
 この東京旅行の最大の目的は、友達以上恋人未満のような妙な親しみがある存在だった鳴海くんに、高校の修学旅行の夜、言葉では言い表しがたい阿吽の呼吸のような、何というか心が通いあったような奇妙な感覚が一瞬間あって、その時に鳴海くんは本当は何を考え、どう感じていたかを確かめることだ。一応はこのことを明らかにしようという動機を軸にして小説が展開していく。
   
 柴崎友香といったら日常小説、と読まれるのだが本作の場合は厳密に言えば日常小説とは言えない。巻末解説の青山七恵もめざとく触れているように、大阪に拠点を置いて生活している有麻は東京に来てみればストレンジャーだ。有麻にとって東京という街は非日常空間であり、加えて大阪を離れて東京で暮らす友人達の暮らしぶりも有麻にとっては非日常的だ。あくまで有麻は旅の人であることを忘れてはならない。
 また柴崎友香はカメラアイの作家だともよく言われるのように、東京の風景、例えば都心の高層ビル街も、浅草寺や東京タワーといった定番の観光スポットも、何の変哲もない都内の住宅街も、全て旅の人の視線と感覚を通してしつこいくらい丁寧に描かれている。思えば東京一極集中のこの時代にあって、あえて遠くの土地の力を信じてサーガを紡いでいく中上健次阿部和重のような作風や、あるいは東京に住む若者を直球で描いていた吉田修一とも違った、意外に珍しい外部の人間の目が見て感じた東京が描写されている点も、本作の得難い成果であり魅力だ。
 
 東京という場所はもちろんのこと、過去とは違う今という時間を生きるかつての同級生達も、場所だけでなくて時間までも旅したような有麻の目には今まで知らなかったこととして映っている。
 もう高校時代のあの頃と同じではないという、至極当然だがその目で直接確かめなければわからないことを実感していく過程を書いたものだと言えなくはないか。
 実際、作中では過去を思い出すシーンが頻繁に出てくるように、本作のテーマは後ろ髪を引かれている過去にケリをつけることだろう。

 鳴海くんの家に泊まったりまでしたのに、修学旅行の夜の奇妙な一瞬のことについて尋ねることができたのは東京旅行の最終日となった。待たしただけあって有麻と鳴海くんの会話は長めに書かれているが、はっきりとした答えは語られていない。けれど二人の間でこの問題は解決したということはわかるのだ。
 というか二人の修学旅行の夜の感覚はどう頭をひねっても言語化できない微妙なものだし、読み終えた私もどうしてもうまく言えないのだけど、二人が何を納得しあったかは理解することができたし、それですっきりした読後感を得られたのだから不思議だ。
 また会う日がもしあるならば、今度は過去ではなく今を生きる者同士としての関係が始まるのだろう、そういう予感を覚えることができた。
 文章技法で言う所の故意の言い落とし、あえて核心を言わずに周囲を細かに書いて肝心なことを悟らせる、修辞学で言えば黙説法となるのだが、それが抜群にうまい気持ちの良い小説だった。

2018 『私の恋人』 上田岳弘(新潮社) 感想

 
 
著者 : 上田岳弘
新潮社
発売日 : 2015-06-30
 2015年度三島由紀夫賞受賞作。あの又吉直樹の『火花』と決選投票の末、これを退けて受賞した。
 
 エピグラフには『宇宙戦争』(著H・G・ウェルズ)からの引用がなされているように、SF的発想力を動力源とし、独自の人類学というか人類史解釈を交えた持論まで持ち出す壮大なスケールの世界観を構築し、と同時に現代文学らしい叙法・技巧の工夫――本作は複数の〈私〉を登場させるスタイルが採用されている――が掛け合わされた大変エキセントリックな小説で、又吉直樹を負かしただけのことはあると思うし、三島賞受賞作らしい小説だったと思ったし、もっと率直に言うとぶっ飛んでいるけど凄い小説で傑作と言ってよいだろうなと思えた内容であった。
 私的な事だがSF文学はちょっと不案内で、『宇宙戦争』はさすがに名前くらいは知っているが小説の方を読んでいないし映画化されたものも観ていないような有様なので、誤読が多少あるかもしれないが気にせず感想を書いてみよう。
 
 本作では《三段階》という現象が重要な役割を持っている。
 
 一通り、設定を書く。
 ●主人公の〈私〉だが、この〈私〉は2010年代の現在、三回目の人生を送っている。
 (1)一回目の〈私〉は、およそ10万年前に生きていた原始人であるクロマニョン人で、ほぼ全知に近い予知能力というか神に等しい頭脳を持っており、人類の過去、現在、未来のほぼ全てを予知していて、その様子を洞窟内に独自の文字を発明して書き残している。
 (2)二回目の〈私〉は20世紀前半にドイツで生まれたユダヤ人で、名をハイリンヒ・ケプラーと言い、ナチスによって強制収容所で虐殺された。ハイリンヒだった〈私〉は、クロマニョン人だった頃の〈私〉の記憶や予知能力や並外れた頭脳など全てを継承している。
 (3)三回目の〈私〉は、現代の日本人で、名を井上由祐(読みはユウスケ)と言い、会社員として生活してる。井上由祐としての〈私〉もハイリンヒと同じように、10万年前のクロマニョン人だった〈私〉、ナチスに虐殺されたユダヤ人のハイリンヒだった〈私〉の記憶や予知能力や並外れた頭脳など全てを継承している。
 
 ●ほぼ全知に近い〈私〉が、10万年前の一回目の〈私〉だった時、退屈紛れに想像した――予知でも予測でもなく願望した――理想の〈私の恋人〉、これがトリックスターのごとき役目を負う。
 10万年前の〈私〉が想像した〈私の恋人〉は以下のような条件と段階を踏む女性だった。
 (1)〈純少女〉、恵まれた肉体、美貌、頭脳を持ち、豊かな環境で育った彼女は他の人間達=人類にしてやれることをひたむきに探し、順次、実行していく。
 (2)〈苛烈すぎる女〉、純少女時代にやっていた事は甘かったとし、富や権力といった力が世界の不均衡を均す、つまり他の人間=人類を救うことになると思い立って行動するがやはり満足いかない。
 (3)〈堕ちた女〉、それまでの人助けをやめて呪術や祈祷に明け暮れるスピリチュアルな集団に入り、それらの儀式のために服用した幻覚剤で薬物中毒者となり男達に次々と輪姦され、相手にした数はゆうに百人を超し、倒錯的な快楽に溺れるも、やがてそのことにも疑問を持つ。
 〈私の恋人〉は三段階のそれぞれの転換点で「そうかしら?」と疑問を呈してまた別の道を探す。加えて『「今」でも「ここ」でもない場所、そこから私の身を案じている、優しい私の恋人』(p.20)と記される。あくまで予知ではなく〈想像〉した女性だということが本作を読み解く最重要なキーとなる。ほぼ全ての出来事を予測できる〈私〉にとって、唯一〈私の恋人〉の言動は予測が難しいと作中冒頭に書かれている。そもそも〈私の恋人〉は想像の産物であって、予知・予測したものではないので、いつ現れるかどうかも〈私〉には唯一わからないのだ。
 本作を一文で要約せよと言われれば「予知できない存在だが優しく、そして人類を救うであろう〈私の恋人〉に出会うために時代を超えた三人の〈私〉の旅」となるのだが、このことは最後のまとめで改めて述べたい。
 
 ●あともう一つ重要な《三段階》として〈行き止まりの人類の旅〉というサブプロットめいたものがある。これは秀才の家系に生まれた高橋陽平という元医者が独自に考え出したものだが、もちろんそれくらいはほぼ全知の〈私〉が既に予知している。その〈行き止まりの人類の旅〉は、冒頭に述べた人類学、あるいは人類史の独特な解釈による上田岳弘の持論を採用したようだ。内容は以下の通り。
 (1)一周目の〈行き止まりの人類の旅〉は、人類が生息地域を拡大し、地球上に遍く拡がった時を持って終わりとする。その過程においてネアンデルタール人クロマニョン人に殺戮、駆逐されて滅ぼされたといった事が起きた。この一周目は、10万年前の《一回目の〈私〉》の時代と合致する。
 (2)二周目の〈行き止まりの人類の旅〉は、地上全てを生息地域として収めた人類同士の争い、世界を最高効率で運用するルールを決める事とされる。ルールとはすなわちイデオロギーの類だ。大航海時代を迎えて発生する他民族を抑圧して支配する植民地政策、つまり支配側の民族、支配側の国家のイデオロギー=ルールを押し付けることが全世界で行われていく。ルールに従わせるために異なるルールを持つ部族、人種、国家は滅ぼされるか服従させられた。
 数々の戦争、帝国主義の勃興と二度の世界大戦における覇権争いの果てに最終的な勝利者イデオロギー=ルールが決定し、全世界を覆う。これは民主主義と資本主義というイデオロギー=ルールを持つアメリカが、その成果であるかのように、人類全てを滅亡させることも将来的に可能となる技術によって開発された原爆=核兵器を二発投下したことをもって終了したとされる。
 この二周目は、つまり第二次世界大戦時、枢軸国側と連合国側の覇権争いの戦争が起こった頃がハイライトとなるわけだが、これはナチスによって、絶滅させられようとしたユダヤ人という人種に生まれつき、実際、強制収容所に連行され、虐殺された《ハイリンヒという二回目の〈私〉》の時代と合致する。
 (3)三周目の〈行き止まりの人類の旅〉は、1995年のWindows95の発売をその出発点とする。この三周目の旅は2010年代の現在も進行中のもので、要はIT関連といったコンピューターの飛躍的な進歩を指し、やがて作中で〈彼ら〉と呼称される、恐らくはAIの事だろうが、人類の知能を超えたAIが、人類を征服して終えるだろうというもの。
 この三周目は、現代の日本人である《井上由祐という三回目の〈私〉》の時代と合致する。
 
 〈行き止まりの人類の旅〉の終わりの直前、節目節目に〈私〉が生まれているのは偶然ではない。三周ある〈行き止まりの人類の旅〉の終わりはいつでもバッドエンディングだ。血生臭いジェノサイドをもって行き止まりに達してしまうのだから。そうして、そんな時に〈私〉は三回も生まれ落ち、理想の〈私の恋人〉を想って止まない。
 
 だいぶ言及するのが後ろ倒しになったが、現代の日本人として生まれた《井上由祐という三回目の〈私〉》は、オーストラリア人のキャロライン・ホプキンスという美女と日本で出会い、交際しようとしている。というのも、キャロライン・ホプキンスは理想の〈私の恋人〉の条件を全てクリアした人生を歩んできており、三回も生まれ変わっては理想の〈私の恋人〉を追い求めた〈私〉にとって最初で最後のチャンスだからだ。
 おまけにキャロライン・ホプキンスは高橋陽平と〈堕ちた女〉から脱出する頃に知り合い、〈行き止まりの人類の旅〉の一周目、二週目を象徴するような場所をあたかも聖地巡礼するかのように経巡る旅に同行しており、はっきりとは書かれないが恐らく三周目の〈行き止まりの人類の旅〉の終末を予測している。これ以上ない理想の〈私の恋人〉候補なのだ。 
 
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 まとめに入る前に、冒頭で触れた叙法・技巧の工夫というのは、この三回の人生を送った〈私〉をめぐる有り様のことだ。
 本作は形式だけ見れば一人称の〈私〉の一人語りということになるのだが、読んでいる時の感覚としては三人称に限りなく近い。それもそのはず、語り手たる〈私〉は一回目の人生の時から全世界、全時間をほぼ見通せる超越者(神に近い存在)だ。神に近いとはすなわち、書き手たる作者のごとき存在であることを意味するが、しかしながらその作者的存在の語り手をあくまで作中の一登場人物たる〈私〉にあえて押し込めた。
 このことにより(ほぼ)全知の存在=神=作者の図式に意識的な書き手がよくやるメタフィクションの手法を自ら封じているし、そしてまた読み手側へもこの手の小説にありがちなメタフィクションとして読解することを巧妙に封じている。今までの文学理論を用いたテクスト分析は恐らく通用しない。よってうまく言い表せないが、新しいタイプの語り手の創出を目指したのではないか、と私は推測する。そうとしか言いようがない。
 作中に出てくる〈私〉とは、三回ある人生を総合して貫く一人の〈私〉であり、且つその時代の時間軸の叙述における行動主の〈私〉でもあって、一人の〈私〉でありながら三人分の〈私〉でもあるという、ひどく複雑な現象が起きている。
 《一回目の〈私〉》、《ハイリンヒという二回目の〈私〉》、《井上由祐という三回目の〈私〉》の三人分の〈私〉が〈私〉を外側から語っていて、三人称だか一人称だか断言できないのだ。この書き方は非常に刺激的であり、前衛的であった。
 単に壮大なスケールの世界観を持った、というだけならただのSF小説になる。そうではない事は、のちの芥川賞受賞作となる又吉直樹の『火花』を始めとする2015年度の三島賞の他の候補作、すなわち岡田利規の『現在地』、高橋弘希の『指の骨』(新潮新人賞受賞)、滝口悠生『愛と人生』(野間文芸新人賞受賞)らを退けたことが証明している。打ち勝った理由の一つにはこの刺激的で前衛的な叙法・技巧も当然、加味されただろう事は言うまでもない。
 
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 さて、ほぼ全知と注意して書いてきたのは、繰り返しになるが、予測できない唯一の例があるからだ。それは〈私の恋人〉の言動である。
 何でも予知し、予測し、知り得る〈私〉にとっては過去、現在、未来のほとんどはつまらない、何故なら結果がわかってしまうからだ。未来からタイムスリップした人間が結果を知っているギャンブルをやって勝っても楽しくはないのと同じことだ。
 しかし〈私の恋人〉だけは違う。〈私〉が願望し夢想した理想の〈私の恋人〉は〈純少女〉、〈苛烈すぎる女〉、〈堕ちた女〉の《三段階》のステップを踏むという条件があった。それをクリアした初めての女性であるキャロライン・ホプキンスは、最後の〈堕ちた女〉の時にでも「そうかしら?」と疑問を呈して、初の《四段階》目に達した女となるわけだが、10万年前から想い続けた〈私〉はその《四段階》目の女を予測できていない。そして〈行き止まりの人類の旅〉の三周目にある現在においても、〈私〉はその先を予測できていないのだ。三周目の次のフェーズに移行できるのは「そうかしら?」と疑問を呈して、今や《四段階》目の女になったキャロライン・ホプキンスだけだろう。
 全知に近い存在の〈私〉の予測も限界を迎えるが、その先まで行けるただ一人の女であるキャロライン・ホプキンスは終盤においては、まるで人類が希求する救世主メシアのように、全世界を包み込むような慈愛を持つ聖母マリアのように書かれていく。
 だからだろう、エピローグめいた部分での〈私〉が〈私の恋人〉に必死に語りかける様子は切実極まりないのだ。三周ともバッドエンディングを迎える〈行き止まりの人類の旅〉、しかしその次の四周目まで挑める《四段階》目の女となった〈私の恋人〉はこの時にあっては、〈私〉にとって、人類にとって、眩しい光として尊く、強く、美しく、そして愛おしい存在として描き出されているのだ。

2018 『ギッちょん』山下澄人(文春文庫) 感想

収録作
『ギッちょん』(初出「文學界」2012年6月号、12年度上半期芥川賞候補作)
『水の音しかしない』(初出「文學界」2011年12月号)
『トゥンブクトゥ』(初出「文學界」2012年12月号)
コルバトントリ』(初出「文學界」2013年10月号、13年度下半期芥川賞候補作)

 硬い文体や、装飾過多な文体、あるいは飾らない文体など、作家の個性によってあまたあるそれらの中において、山下澄人の場合、初めて読んだ時にはどうにも拙いという印象を抱いてしまう文体なのだが、これが巧妙に不安や不穏を感じさせるものとなっており、戦略的に選び取った文体なのだと気づく。この点だけでもただ者ではないとわかるはずだ。
 それから山下澄人の小説は物語性は重要ではないのであらすじなど書くのは無意味だし、いや、正直に言うとどういう話だったか、読み手が混乱するように書かれているので、わからなくてもよいと思う。実際、私も途中からどんな話だったかと考えるのはやめた。物語性の否定は、何も今に始まったことでなく、現代の純文学(純文学というカテゴリーがまだ生きていると仮定して)では、主に日常を細やかに書いていく小説群の中で物語性などとっくに捨てられているものだからこの点に限ってはそれほど珍しくはないのだが、山下澄人の場合、否定などといった生易しいものではない。物語性、ストーリー性はズタズタに解体されている。

『ギッちょん』
 この短篇では節の記号として置かれる数字が主人公の年齢、そして叙述の順を表す機能を持っている。たとえばこんな具合だ、「32.34.30.34.07.35」、つまり32歳の頃、34歳の頃、30歳の頃、34歳の頃、7歳の頃、35歳の頃、を書いているという風に示されていて、しかも年齢が変わる時に空白一行開けといったわかりやすいサインは一切ない。しかしながら、むしろ、本作は読み手に優しい方だ。時間を何の躊躇もなく次々とめまぐるしく変えていく独特のスタイルは継承されていくのだが、本作以降、このような親切な時の移り変わりのヒントを与えてくれなくなるからだ。それで、この節が年齢を示すということは読んでいればそのうち誰でも気づくのだが、それに安心して気を抜いているとあっという間に、時空の歪みに引きずり込まれて、〈わたし〉の存在が曖昧で混沌としたカオスな世界に気づいたらハマっていたとなりかねない。また〈わたし〉の存在がどうのこうのという問題のみならず、〈わたし〉が分裂していく感もある。
 こんな風に書いていくと幻想的、などという形容を押し付けたくなるが、そんな古臭い定義なんて不似合いだ。有機的な繋がりがいつしか断ち切られたかのように、リアリズムの埒外に読み手は放り出される。しかしか細い糸が健気に小説全体をこっそり繋いでいたことが、最後まで読めばわかるはずだ。この繋がりが何とか読み取れるということも、まだ読み手に気を使ってくれていると言える。
 しかしながら、ここに書かれているものは何なのか、とか、神出鬼没の〈ギッちょん〉や、〈わたし〉は何者なのか、とか、そんなことを考えるのも野暮に思えるような、小説として成立するギリギリのライン上でふらふら揺れている世界に、山下澄人は読み手を誘い込んで、目眩を起こさせる。山下澄人の特徴と、まだ読みやすさを持っている『ギッちょん』を先頭に配したのはうまいと思ったものだ。
 
『水の音しかしない』
 これも自分の存在が揺らぐ話として読んでよいだろう。とある日のある時間、今までいた人達が忽然と姿を消されてしまった世界に主人公が迷い込む。アイデンティティの喪失というか、自分が自分であることを保証する外的事象、自分が自分であると信じられる要素が、いかに自分の外の情報によって支えられているか、そしてそういった馴染みある普段の人付き合いやなんやかんやの外的事象が全て奪われた時に果たして自分は自分であるとどう証明するか、どう信じればよいのか、といった居心地の悪さが書かれていく。不穏より不安が煽られる。
 しかしながら、途中で3・11の大震災と津波がこのような事態をもたらしたのだと示された瞬間、ちょっとがっかりした。これは安直ではないか。いなくなった人々、昔とは変わった風景、どこかおかしい世界は、わかりやすさを含んだ非現実的な世界、大量の人間の喪失(死)を体験した世界という文脈にどうしても回収されてしまう。こんなことは他の作家でも、というか誰でも書けるので、わざわざ山下澄人が書く必要はなかった。山下澄人の場合、大震災や戦災などといったリアルな現象などに頼らなくてもぶっ飛んだ不可思議な世界を構築できるからだ。もちろん山下澄人らしい錯綜具合が展開されているので、読み手をじゅうぶん困らせてはくれる。質は良いからこそ、安易に流行りに乗ったように3・11を核心に置いたのが少々残念だった。
 
『トゥンブクトゥ』
 山下澄人の本領発揮といった様相を呈す。
 二部構成で、第一部では、とある電車の中の数人の乗客の、それぞれに抱える生活を垣間見るところから本作は始まっていく。都合、一人称の〈わたし〉が三人、内訳は突然蒸発したいと思い立つ〈わたし〉、水族館に勤務する〈わたし〉、会社のごたごたと布団屋ごときに罵倒される女の〈わたし〉、そして三人称で書かれる老人一人、そこからどんどん登場人物が増えていく。
 複雑な叙述のありようは、ブレーキを踏むことなく振り切っているメーターも気にしないでどんどん錯綜していく。その中で三人の〈わたし〉は分裂というより、個人として個性を持ち、独立していた存在だった〈わたし〉達が、急に重なり合うというか同一化していき、独立性がなくなってしまう。個性が消えるのだ。それは三人称で書かれる場面でも同じで、増えていく登場人物達も最初は独立した個人だったのに、境界線が崩れて、その人をその人だ、と保証することができなくなる。ここでも存在の是非がキーとなっているのだが、〈わたし〉が複数に分裂していくのならまだしも(星野智幸の『目覚めよと人魚は歌う(三島賞受賞作)』に、分裂していく個人といった現象があったような覚えがある、『俺俺』(大江賞受賞作)もそんな感じだったから分裂していくなら前例はある)、各個人として独立性を保っていた〈わたし〉達が、一つの〈わたし〉に詰め込まれていくありようは衝撃的なのだ。何なのだ、この小説はとびっくりしてしまう。
 
 第二部では、第一部の歪んだ現実世界から明確に、現実世界ではない、異空間のような海辺に登場人物達は飛ばされている。
 そこでは第一部で起こった出来事が歪んだ状態そのままで引き継ぎがなされ、どの〈わたし〉なのか最低限の区別はできるように書かれているが、一人称の〈わたし〉だったり、と思ったら三人称多元視点になったりと、人称や視点がぐるぐる変わるので、何が何だかもはや説明できない。一応の解釈として、第二部はその乗客達などの登場人物が同じ夢を見ていたか、第一部に脇役として出てくる寝ている老人(三人称で書かれた老人とは別)の夢の中を書いたとも解せないこともないが、その夢らしき不穏で不安感に満ちた危うい世界を創り上げている文章のスタイル、人称や視点の頻繁な変化を、これは夢の中だから、といって扱いに困るから無視するようではあまりにもったいない。
 ここで名前を出したいのは〈移人称〉という用語。提唱者の渡部直己がセクハラの件であんなことになってしまったので、〈移人称〉なる用語もだいぶ株を落としたかもしれないが、どうしても山下澄人は〈移人称〉といった新しいスタイルを貪欲に取り入れて、現役作家で一番使いこなしている作家と言えるから、この大きな特徴は見逃せない。
 視点や、視点人物、人称を変えることはつまり、作中の何者かの目を借りて見る視界のみならず、作中にある物事への認識の仕方までも変化させる行為だ。たくさんの一人称の〈わたし〉と三人称多元視点の頻繁な切り替えがこの小説を厄介な代物にしているのだが、その厄介さは小説の中のカメラの限界を、文字でできることを尽くして突破しようと試みていることに他ならない。
 一人称の主観的な認識と主観的だが狭い視界、三人称の客観的な認識と客観的だからできる広い視界が入り乱れることと、その相互作用によって今までの古い小説どもとは違った小説内の世界のありようを提示することに果敢に挑んでいることがわかる。
 そうして、ここまで視界や認識を揺さぶられると当然のことだが読み手はウォッカをまるまる一本がぶ飲みしたように酩酊してしまうのだが、この強い酔いを伴うわけのわからない読後感は奇妙に心地よい、少なくとも私はそう感じた。
 
コルバトントリ
 一人称の〈ぼく〉のまま、人称は動かさずに視点人物がおばさんになったり、金田や三浦といった少年になったり、父や母となったり、視点が自由自在に動き回る。また〈ぼく〉が直接体験していない過去に平然と飛んでしまったりするので、語りの時間が入り乱れて、ひどく錯綜する。
 徐々に〈ぼく〉とされていた男の子や、その他の多数の登場人物を見る視点が歪んでいくと言えばよいのだろうか、〈ぼく〉が〈ぼく〉でなくなっていくし、登場人物達もおのおのの存在のあり方が変わってしまう。整合性は破棄されていると言ってよい。
 一人称だから〈ぼく〉が知っていることだけ書かれているのかというと、〈ぼく〉はそのことを知らないことを知っている、という極めて難解な言い回しと歪んだ認識が書かれだす。
 ここにおいて、従来の小説のルールだとか、約束事はズタズタに破壊されている。しかしそれらはそもそも守る価値や義務があったかと疑ったことはあるだろうか? 私は最近とみに増えてきたこの手の小説を読むまで疑いもせず、むしろ無根拠に従来型の小説のルールや約束事を破らないよう、間抜けにも気をつけていたくらいなのだ。こんなものは無価値だし邪魔なだけだ、と本作を読めば気づく。本作においては〈移人称〉という用語ですらカバーできないスタイルが採用されている。従来型の小説の用語を使うと、多視点小説ということになるかと思われる。しかしことはそう簡単ではないし、今までにないスタイルが提示されているので、〈移人称〉なる用語がある一定の認知度を得ているならば、私はこの、一人称でありながら、そして〈ぼく〉の語りを固定したまま、視点人物が移り変わっていく本作に対し、〈移視点〉なる造語を提唱してみたい誘惑に駆られた。
 
 ここまでごちゃごちゃ書いてきて、この初期作品集を読んで考えたり思ったことのまとめを書くのがひどくしんどいのだが、山下澄人の革新的な魅力は、何も徹底的に破壊した時間軸、リニアに進むはずの時間の流れをぐちゃぐちゃにしたといった点や、わたしがわたしであることの不確かさといった存在のありようへの疑問といった問題を突きつける作風だけにあるのではない。
 人称や視点の大胆で型破りな移動、それに伴う破調、破格のスタイルを持つ前衛的な叙法を貪欲に取り入れ、かつまた新しく創り出してしまう作家群の、先陣を切っていることが何よりも刺激的で何よりも魅力的なのだ。そういった山下澄人の魅力は、この初期短編集だけでも十二分に味わえる。

2018 『爪と目』藤野可織(新潮文庫) 感想

 
 
著者 : 藤野可織
新潮社
発売日 : 2015-12-23
 2013年度上半期芥川賞受賞作。
 ホラー小説であると思うし、またミステリー小説でもあると思う。終始、醸し出される不穏で奇妙な雰囲気は何なのか。本作の謎に迫るには人称と視点、おかしな語りを見ていくことになるはずだ。直截に言ってしまえば、これは語りのホラーであり、ミステリーである。
 
 基本的なことを確認すると、まず語り手は三歳児である〈わたし〉だ。父は〈あなた〉と不倫関係にあった。そして母がある時、ベランダで死亡した。これを機に後妻として〈あなた〉が滑り込むようにやって来る。小説は〈わたし〉が〈あなた〉に語りかけるような調子で進行していく。二人称小説だとも言われる所以だが、そう定義したところで本作の全てがわかるわけではないし、本当にこれが二人称小説かどうか怪しいものだ。
 〈わたし〉が作中に実在する人物として最初から最後まで登場している。普通に考えれば、これは一人称小説だ。読み手としては〈わたし〉が語ることを読んで(聞いて)いくしかない。しかしながら、この〈わたし〉が曲者で、また怖ろしく、また奇妙な語り手であることがわかってくる。おかしな点は三つ挙げられる。
 
 ・一つ目に、三歳児とは思えない大人びた口調と、観察力と判断力を持っていること。
 ・二つ目に、一人称でありながら、〈わたし〉が知り得るはずのない〈あなた〉の心理や、〈わたし〉がいないはずの空間や、過去まで語ってしまうこと。父のこともそうやって語ってしまうこと。
 ・三つ目に、〈わたし〉すら外側から語ってしまうような文章がいくつか出てくること。引用すると「寝室では、わたしが両親のダブルベッドの真ん中で、掛け布団の上にうつぶせになって眠っていた。」「わたしは、リビングに踏み込んだことに気付かないようだった。」等々。これは一人称の語りとしては、少々おかしい書き方だ。
 
 一つ目は、成長した〈わたし〉が過去を回想しているとすれば説明できるが、二つ目、三つ目はそうはいかない。
 二つ目のこと、〈あなた〉の行動だけでなく心理をも語り、また〈あなた〉だけでなく父のものまで語っていることからして、これは三人称多元視点、いわゆる神の視点のようになっている。最近は意図的に小説の常識を崩して、一人称と三人称の間を自在に移動し、視点を動かす小説が出現しているから、その手のものかと言えばちょっと毛色が違うのではないか。あくまでも形としては一人称体のままで、変化はしないからだ。〈わたし〉は〈あなた〉や父の内面に潜り込めるし、〈わたし〉のいない空間や過去に移動できる神のような、人間を超越した、あるいは人間にあらざる何かとしか言いようがない。
 三つ目は、三歳児の娘である陽奈としての〈わたし〉を、陽奈ではない〈わたし〉が語っているという現象が示されている。〈わたし〉を〈わたし〉が外側から語る、客観的に書くとは何が起こっているのか。 
 この語り手〈わたし〉はいったい何者なのか。語りのホラーであり、ミステリーであると言ったのはこういうことだ。
 
 何者であるかを推理する前に、『爪と目』という題名について。〈あなた〉という後妻はひどく視力が悪い。おまけに見たいものだけ見て、見たくないものは見ない。利己的な性格の象徴として目の悪さが使われている。
 〈あなた〉は〈わたし〉をきちんと見ようとしない。その憎々しさからか、〈わたし〉は爪を噛む癖をやめられない。一時的で投げやりな処置としてスナック菓子を与え続けて爪を噛む暇を奪うが、いつしかそれを忘れた時、爪を噛む癖は再開され、ギザギザな凶器となった爪で〈わたし〉は問題を起こす。またもや一時的な処置として、爪をヤスリで削るが、爪は鋭さを獲得し、さらに危険な物になったことに〈あなた〉は気付かない。依然として〈わたし〉を見ようとしない〈あなた〉は、〈わたし〉の爪によって、利己的なその目は攻撃されるだろう。
 この内容と上記のおかしな三つの点を合わせて推理すると〈わたし〉は何者なのか、見えてくる。
 〈あなた〉は三歳児の連れ子である〈わたし〉を見ようとしない。その〈わたし〉には、〈わたし〉を産み落とした者の面影があるはずだ。〈あなた〉にとっては見たくない、考えたくない人物だろう。いや、そもそも〈あなた〉の見ようとするものの対象外なのかもしれない。既に死んだ者など、鈍感で利己的な目が持つ視界には入れないのかもしれない。
 
 その〈あなた〉を憎む今は亡き者が〈わたし〉に取り憑いているとしたならば、今まで書いてきた不審点がおおよそ解明されると思うのだが、どうだろうか。むろん、誰とははっきり書かれていないのだから、他にも解釈や推理のしようはある。本作が持つ怖さもまた、多様な要素の組み合わせからもたらされたものだ。しかし実験的な人称、視点、語りからホラーを生み出せるなんて、と思わず唸ってしまった。